2.イエス(BC4?〜AD33) ガリラヤ地方の大工ヨゼフと妻マリアから生まれる。妻は処女懐胎だったとされる。 ガリラヤ地方は「地の民」と呼ばれる被差別民の多い所で、 救済の必要な人が多数いた。そのような中でイエスが育った。 30歳頃、イエスは預言者ヨハネから、ヨルダン川につかって洗礼を受ける。 洗礼の時に「自分たちの父にはアブラハムがあるとは思ってもみるな」と指導される。 洗礼は、それまでの自己本位な生活を悔い改めて、神の国に向けて全面的に転換することで、 単に「入信宣言」をすることではない。 ヨハネの死後イエスは様々な奇跡を起こし、自分がメシアであることを自覚し始める。 「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音(神の知らせ)を信じよ」と唱える。 イエスは空くまでもユダヤ教の律法の精神をどう活かすかに注目しているのだが、 すでに、ここで「律法を実行せよ」ではなく「信じよ」と従来のユダヤ教の考え方にない 発想の転換を行っている(誰を救済したいのか…山上の垂訓を読む)。 そして、パリサイ派を批判する。あまりにも形式主義的すぎると言うことである。 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」。 「自分の息子が井戸に落ちたから、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が いるのだろうか」と言っている。 イエスによれば、律法の本質は「神の愛(アガペー)」であるとする。 神もまた契約によって人を救済しなければならない。 神から一方的に与えられた律法を守れば、救済しなければならないのだ。 人は律法を厳格に守れない。しかし、その罪で罰を受けることを恐れている。 しかし、人はアダム以来罪を負っている。みな罪人である。その罪から救済されたいと 考えている。そのような人を神は救済したいと考えるはずである。 救済するために、愛を降り注いでいるのである。したがって、神を信じて悔い改めれば、 神は必ず救済してくれる。 我々の行うことは、 1.神の愛を信じること 2.神が行うように、無報酬、無差別に隣人を愛すること(神に直接答える手段はないから) =米国でボランティアが盛んなわけ) である(イエスの黄金律)。 このように律法の本質を行動などの外面ではなく、内面化することによって、 本来救済されるべき人を救済することが出来るようになったのである。 これが本来の律法のあるべき姿であり、ユダヤ教のあるべき姿であると提示しようとしたのだ。 だが、イエスの態度はパリサイ派らの反感を買うことになった。 そして、イエスの死へとつながる。
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