1.宗教改革運動 インドでは、紀元前500年頃から、都市国家が登場する。 これによって社会構造が変わりバラモンの権威が下がった。 王族からはバラモン至上主義批判が出て、バラモン教の改革に進む。 一方で、都市を中心に宗教改革運動が起きた。 このとき興った宗教で現在に繋がるものは二つである。
(1).ジャイナ教 開祖はヴァルダマーナ。厳格な不殺生主義をとっている。現在信徒数200万人。 白衣、マスクをつけ、裸足でほうきを持ちながら歩く。虫などを殺さないためと言われる。
(2).仏教 開祖はガウダマ・シッタールダ(ゴウダマ・シッタッダ)。 仏陀とも言われるが、これはサンスクリット語のBuddahに由来する言葉で、 「覚者:悟りを開いた者」の意味。ちなみに菩薩は菩提薩陀から来ていて「修行をするもの」。 釈迦はシャーキア族の王子、釈迦牟尼はシャーキア族の聖者の意味である。 ブッダは紀元前500年頃に生まれるが、ソクラテス、孔子もほぼ同じ時期の生まれ。 地球全体が新しい時代に入ったからであるが、彼らが現在でも崇拝されているのは、 紀元前500年以来、基本的な社会構造が変わっていないからともいえる。
2.仏陀の生涯 ブッダは釈迦族の王とマヤ夫人の間に生まれた(西小山近辺に祀っている寺がある)。 イエスと異なり普通の人として生まれたが、誕生秘話に寄れば、マヤ夫人が 夢を見ているときに像が飛び込んできたと言われる。そして、マヤ夫人の脇っ腹から生まれ (夫人は1週間後に死去)、七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と唱えた。 このとき、空から妙なる音楽が流れ、花が舞い、地上からは甘露水と呼ばれる水が湧いたという。 その水で産湯を使わせた。このことを記念している行事が4月8日に行われる「花祭り」。 桜の季節のお祝いでなく、花が舞ってきたことをお祝いして、甘露水として甘茶をかける。
ブッダは何不自由なく城内で暮らし、16歳で結婚して、一子(男子)を儲けた。 だが、その後遊びに行こうと城を出たときに事件が起きた。 東西南門、それぞれの門を出たときに、老人、病人、死人を見た。 なぜそのように苦しまなければならないのか悩んだ仏陀は、北門から出家した(四門出遊)。 仏陀は2人の師について山中で修行をした。6年間断食を行い、その間、一日に一粒のゴマだけ ですごした。しかし、頭が朦朧とするだけで、悟ることは出来ない。
そのことに気がついた仏陀は、修行仲間の止めるのも聴かず、山から下りてしまった。 そして、川沿いの村の村娘であるスジャータから乳粥をもらい、体力を回復させた。 厳しい修行でなく適切な修行が必要だと考えたようだ。 その後、35歳の時にガンジス川のほとりのブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し、悟りを開いた (インドの思想の原型がここで出ている)。法(ダルマ):真理を悟ったのである(cf.達磨)。 この瞑想の時は様々なものが悟るのを妨害しようとしたそうである。 だが、最後に地から魔物が出てくるときに、ブッダは地面に手をつけてそれを押さえ込んだ。 悟ったのはその日の朝であった。
周囲から(天女など)、ブッダが悟ったことを教えて欲しいと言われたが、 ブッダは最初は拒んでいた。深遠すぎて他の人は理解出来ないというのである。 だが、ついにサルナートの鹿野苑で悟ったことを説いた(cf.鹿苑寺:足利尊氏の墓がある所)。 これを初転法輪という。法=真理は完璧だから凸凹のない輪のようなもので、 それが前へ前へと転がっていくという意味である(cf.仏教雑誌『大法輪』、仏教関係の旗の輪)。
その後仏陀は布教活動をしながら、信者を増やしていった。彼らは出家して教団生活を 送っていた。このような中で、教団に修行場所を寄進する者が現れた。マガタ国では ビンビサーラ王が竹林精舎を、コーサラ国ではスダッタが祇園精舎を寄進した。 そこから鐘の音が聞こえていたのである。
だが、仏陀も老いてきて、80歳で入滅した。体調を崩してクシナガラで静養し、 一端は体調が回復した。しかし、食あたり(毒茸とも赤痢とも言われる)により、 激しい腹痛と下痢を起こした。二本のサラの木の下で、インドの習慣である北に枕を置いて 横たわっていた。師の死を嘆くアーナンダに対して、自分は死んで消えていくが、 「法」を守るようにという趣旨のことを伝えて死んでいった。死んだときにサラの花が咲いたという。
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