韓国の仏教の特徴

序.一見して分かる日本との違い
仏教は大きく上座部仏教と大乗仏教に分けられるが、日本、中国、韓国、ベトナムでは仏教の中でも大乗仏教が信仰されている。だが、これらの4カ国では、基本となる経典、信仰のあり方はよく似ているものの、それぞれの国で自国の文化、伝統的な思想と融合して、その国独自のものとなっている。韓国寺院も、日本とは次の点が異なる。
 
 1. 山神閣がある…三聖閣などとも言う。道教の北斗七星や、山神を祀ったもの
             高麗末から朝鮮初に祀られたはじめもので、韓国独自のもの。
 2. 風水思想の影響が随所に見られる。
 3. 建物が丹青(タンチョン)で塗られる
 4. 仏教儀礼が比較的単純。
 5. 墓地がない。…日本は江戸時代の「檀家制度」によって、寺院に墓地が出来た。本来、寺院とは僧侶の「教学と修行の場」。

1.韓国仏教の特徴
韓国仏教の特徴は大きく、3つに分けられる。1,護国仏教、2,総合仏教(華厳経が基礎)、3,韓国文化との融合。

(1)護国仏教
韓国に仏教が入ったのは、中国の南北朝時代である。公伝したのは、高句麗(372)、百済(384)、 新羅(527)である。南北朝時代は中国仏教が成立する前で、まだ西域から伝えられた仏教の解釈に力点が置かれている時代であるが、そのような中、北朝の北魏は仏教を国の統治の手段、すなわち護国仏教によって国を統治した。韓国でも新羅の仏教は護国思想の強いものであった。朝鮮半島三国の中でもっとも後進国であったからで、このような統治原理が必要だったのだ。つまり、

  新羅は仏国土、
  王は仏の家族。
  国を護る花郎弥勒の化身で、衆生(=新羅)を救済する。
  護国のための寺院(皇竜寺芬皇寺四天王寺など)の建設。

新羅仏教の受容に呼応するように、百済も国家による護国仏教が盛んとなり、扶余益山は仏教都市のようになった。日本に伝えられた仏教もこの流れにあって、特に奈良仏教、南都六宗はこの護国仏教の流れを汲んでいて、この思想によって東大寺の大仏や国分寺が建立された、護国仏教の思想は日本では衰えるが、韓国では現在まで続いている。
  高麗大蔵経(契丹、元の侵攻に対抗)
  義兵(日本の侵攻に対する西山大師、泗溟大師の僧兵が代表的)

(2)総合仏教
日本仏教は多くの宗派に別れているが、韓国仏教は細かく別れていない。禅宗と浄土が一致するということで、一人の僧侶が念仏も唱え、座禅もする。歴史的にも宗派が分裂するようにみえつつ総合していくとことを繰り返してきた。すでに新羅時代、元暁は、
「互いに違って見える主張もすべて釈迦の言葉を解釈しているので、どれも正しい(『十門和諍論』)。」と主張していた。

新羅の仏教は華厳経という「教宗」が中心であった。また、三国統一を前後して、ようやく成立した中国仏教が流れ込んできて、阿弥陀を信仰する浄土経や禅宗、密教なども入ってきた。浄土信仰は主に民衆に浸透するが、日本のように独立の浄土系の宗派が出来ることはなく、各宗派に吸収された。華厳経を軸にしていた元暁も、庶民には念仏踊りによる浄土経思想を広めていた。このように、各経典が混ざり合っている様子を象徴するのが、仏国寺(751年創建)である。仏国寺自身は華厳経に基づいて作られているが、

  大雄殿:法華経(釈迦塔、八界金剛座多宝塔)
  極楽殿:浄土経
  毘盧殿:華厳経(毘盧遮那仏)
  観音殿:観音経(法華経)

など、もっと高いところに観音伝があり、その下に毘盧殿(華厳経)、大雄殿(法華経)、極楽殿(浄土経)という伽藍配置となっている。

新羅末期には地方の寺院や豪族の間で禅宗が信仰されるようになった。新羅政権に対する反発があったからである。高麗王朝は華厳宗が再び強まるとともに、禅宗も強まり、仏教界に混乱が起きた。高麗に天台宗が本格的に導入されたのも、これを止揚するためであった。天台宗は中国では華厳宗と並んで重要な宗派とされ、日本でも最澄によって9世紀初めに成立したが、高麗で成立したのは11世紀後半であった。

高麗に天台宗を導入した義天は教宗の側から禅宗を融合させようとした。というのも、天台思想は教宗と禅宗の折衷的性格(=教〔仏の教え〕観〔禅宗の参禅〕兼修)を有しているからである。

一方で、高麗初期には仏教思想と風水思想が融合した。禅僧の道詵は、名山などの良い土地を選んで塔や堂を建てれば国運の発展を助けると考えた。というのも、朝鮮半島は山が険峻で悪「気」が満ちて乱が起きるので、それを防ぐ必要があると考えたのである。それゆえ、高麗以降に創建された多くの寺が風水地理上の明洞に建てられている。また、密教の影響も随所に見られる。寺院にマニ車が置かれるところも多く、石塔などもその影響を受けたものがある。

その後も華厳宗などの教学と禅宗の融合はさらに進み、12世紀半ば、知訥が独特な禅宗を提唱した。知訥は禅の宗旨と華厳の教えが一つであると悟り、禅宗の側から教宗との融合を諮った。その後普愚が中国の臨済宗を伝え、韓国の禅宗、「曹渓宗」が成立した。

朝鮮時代に入ると仏教は弾圧され、教宗と禅宗の二宗に整理されました。その後教宗は衰退し、禅宗=曹渓宗が主流となった。ここでも西山大師が説いた「禅教不二」、「教は則ち仏語、禅は則ち仏心。仏語は入門であるから、さらに進んで仏心を了解しなければならない。したがって禅と共に念仏も進める」とした考え方が主流となり、この観点から仏教界の統合が進んだ。また、李朝時代の弾圧の下で民間信仰として生きていくようになった。日本時代には日本仏教の影響で妻帯僧が現れたが、解放後に禁止された。それによって妻帯僧を認める派閥が太古宗として独立している。

このように、韓国の仏教は新羅時代以降の護国仏教の性格を保ちながら、高麗以降道教、風水を融合させながら独自の立場を作り上げた。その基礎には、常に華厳経が基礎に置かれているという特徴がある。日本仏教が法華経を基本としながら発展してきたことと大きく異なる。※鎌田茂雄『朝鮮仏教史』東京大学出版会(1993)を中心にまとめた。

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