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2013年4月23日
5.21皆既日食

雲のおかげで肉眼で見えた(2012年5月21日)。

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おもしろ日本語

新大久保で見つけたもの。2011年8月。

 

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おっと危ないハングル

갸 に見えました。2011年7月、池上線で。

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おっと危ないハングル

ITにあった写真ですが、どう見てもハングルです。

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2013年4月15日
交流よりも、人とつきあうことを(竹島、尖閣問題を前にして)

…2012年、竹島、尖閣問題が起きたときに書いたものです。
 
ここのところの日韓、日中の軋轢。色々考えることがあるが、
決定的に大きな違いがあることにも気づいた。

韓流ブームの存在である。韓流ブームの結果、韓国に関心を持ったり、

韓国語を勉強する人が急速に増えた。そして、そこで「交流」レベルでなく、
実際に行き来したりつきあう韓国の人が増えた(これは事実)。
そうなると、日韓の政府レベルで何か問題がおきても
庶民のレベルでは「韓国にいる『あの人』」を連想することになる。

韓流ブームが始まる前は、韓国に行った人は多くても、

多くの人は旅行での接点でしかなかった。人の接触ではなかったのだ。
それが、「韓国語教室の○○さん」、「食の講座の○○先生」と
イメージが変わったのは大きいのだろう。仕事の関係でなく、個人的な関係としてである。
つまり、パイプが多くて、決定的なところまではいけないと言うことになる。

これに対して、中国の場合。

まだ、そこまでの関係を持っている人は多くはないのではないか。
仕事や留学以外の多くの人にとって、抽象的な中国でしかない。
先方から見ても抽象的な日本でしかない。
 
この違いが、今回の「対立」に対する人々の反応の違いに結びついているように思う。
先方の政府の「指導」が大きいこともあるが
それだけで、あの暴動までは説明がつかないように思うからである。

そういえば、韓国でも反日運動はあっても、暴動に繋がったことは記憶にない

(アメリカに対してはあったが)。
 
やはりある程度日本に知っている人がいて、
その人の存在がブレーキになったのかも知れない。
在日の存在が大きかったのかも知れない。
親戚が日本にいるわけだから…。(2012年9月28日、FB投稿記事)

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ものを習うこと(話してみよう韓国語を中心に)

NHK総合のファミリーヒストリーで「小さん」師匠を扱っていた。
最後に花緑に語っている言葉で、
剣道に「守、破、離」という言葉があると言うことを語っていた。
 
最初は師匠に忠実に従う「守」。次の段階で師匠を乗り越えようとする、
そのための他の人にも見てもらう「破」。
そして自分だけの世界を作る「離」と言うことが必要だと語っていた。
どの分野でもそうなのだろう。

 2013年1月27日。「話してみよう韓国語 中高生大会」の大会を見た。
面白いことに、指導者のカラーが良く出ている。
コンクールだから指導のポイントが同じになるはずなのに、癖がでてくるのだ。
同じところを目指しているのに、面白いものだと思う。

 
高校生の場合、教員との距離が大学生や社会人より密接になるので、
教授者側からの影響は大きい。
 
習い事として、まずは、その先生の方法で韓国語を学習してほしい(守る)。
そして卒業後も続けるなら、新しい先生の元でさらに上の世界を目指してほしい。

 学習を進めるうちに、高校の時はよく分からなかったけど、
この先生の説明でよく分かったとか、あのとき、よく分からなかった発音の仕方が、
この先生に聞いたらよく分かったとなればそれで良いわけだ(破)。
 
しばらく勉強を続けて、あのとき、あの先生が言っていたのは、
「こういうことを、こう言う目的で言っていたんだ」、というところまで理解してもらえれば、
教えた方としては本望。すでに、自分の世界を築いていることになる(離)。

 ものを習うと言うことは、どれでも同じだろう。高みに登るための訓練者というか。
同じ山を登っても、麓の階段を上った先の神社から眺める景色と、頂上からの景色は違う。
上からの景色が良いことの方が多い。

 
しかし、闇雲に上れば良いわけではない。高い山になればなるほど遭難の確率も高くなる。
だから、ガイドが必要なのだ。ガイドごとに注意するところ、ルートの選び方、
天候などを判断するタイミングは異なる。
 
しかし、そのガイドについて登り、その醍醐味を知れば何回でも登りたくなるだろうと思う。
その後、最初はガイドに教わったとおりに上ろうとするだろう(守)。
 
だが、そのうち他のガイドや色々な人との出会いによって、
習ったことをベースにしながらも、それを克服しようと考えつだろう(破)。
 
そのうちに、自分なりの登山法を確立することになる(離)。
そして自分なりの眺望を楽しむことになる。
 
もちろん、一休みするとか、雨の時には雨宿りすると言うことも必要。
でないと、怪我したり、息切れして倒れることになるから。

Posted by hajimet at 23:03 | Comments (0)


2013年4月8日
金沢・能登「古代幻視紀行」3日目(4月7日)

爆弾低気圧で大荒れの予報が出ている中、8時30分出発。大風の一日だった。さいわい、雨は一時を除いて大したことはなかったが。傘をさそうとすると体が持って行かれる。転倒した人がいなかったことがさいわいの一日だった。
 
七尾は前田利家以降町造りがされたところ。道路は沿岸を走る。埋め立てられたと言うが、干拓地のように見える。加賀藩によって作られた軍鑑所の跡もある。近くには中世式山城である七尾城跡もあり、城下の区画もかなり残っているとのことだ(一部道路建設で破壊)。
 
万行遺跡に行く。3世紀から4世紀にかけての大型掘立柱建物群の出土したところで、非常に大きな建物が建っていたことが分かる。倉庫説と祭祀遺跡説があるようだが、倉庫説に基づく説明を受けた。この規模はおそらく国家管理のものであろうと言うことと、北方交易のための倉庫というものである。3世紀前後は北方勢力が越後まで進出してきたことが土器から分かる時代である。国指定遺跡となり、これから整備されるとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて「能登国分寺跡」に行く。この地域は能登国造の勢力範囲であるが、その大興寺を転用して作られた。ほかの国の国分寺より約100年遅れた843年に作られた。塔などは風で倒れた記録があり、代わりに作られたと思われる瓦塔が出土している。近くに国府もあるはずだが、まだ場所は確定されていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国分寺跡は整備されて公園となっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて院内勅使塚古墳に行く。蝦夷穴古墳よりも一つ前の7世紀前半の二段方墳。作り方は、石舞台山古墳の縮小版である。能登国造一族の墓と考えられている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて雨の宮古墳群。江戸期に雨乞いをした場所であることから、このような名前で呼ばれている。邑知地溝の南側、眉丈山山頂の尾根筋に、前方後方墳一基、前方後円墳一基を中心に36基の古墳が存在している。1号墳の前方後方墳は日本海側で最大級の前方後方墳の一つである。4世紀中頃から5世紀初めにかけてのもので、副葬品から能登一円に勢力を持った人のものと考えられている。
 
邑知地溝帯を挟んで反対側にも小田中親王塚、亀塚などの大型古墳があり、それとの関係も重要とのことであった。
 
残念ながら、強風下では山の尾根に上ることが出来ず、資料館のみ。ここには1号墓の粘土槨の実物大模型がある。木棺の形状をしめす、内側の凹みや、最後に粘土で覆った後、板状のもので突き固めた後などを見ることが出来る。
 
棺は3つの部分に分けられ、足下にはその人の権威を示すもの、中には遺体など、頭上には会葬に来た人が入れた土器などが出てきた。たまたま江戸時代に盗掘されているのだが、盗掘坑が中央の遺体部分に開けられたため、ほかの遺物は残ったという幸運の盗掘であった。
展示室は墳丘の作り方、埋葬の仕方などが分かりやすく説明されていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これで見学は終了。千里浜ドライヴインで昼食。ともかく風が強く、浜の道は閉鎖。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
波も当然高い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
当然バスはゆらゆら。ときどきハンドルを取られかけている。そうこうするうちに北陸道から東海北陸自動車道に入る。五箇山、白川郷あたりは雪。最高点付近の気温は2度まで下がっていた。
「城端」と「ぎふ大和」で休憩を取りつつ南下。名古屋駅で解散した。

Posted by hajimet at 11:11 | Comments (0)


金沢・能登「古代幻視紀行」2日目 4月6日

「金沢白鳥路ホテル」を8時に出発。ホテルは、温泉ホテルで、少し黒い色をしたナトリウム塩泉で、硫黄泉のような肌触りの湯であった。
 
羽咋に向かう。3月31日に無料化されたばかりの「のと里山街道(旧能登有料道路)」を進む。約40キロ。途中も遺跡、古墳の話しを聞く。中には、明治初頭、キリシタンがまだ弾圧されていたときに、長崎から金沢に連れてこられて幽閉された場所から、完全な白骨が数体出たが、副葬品がなく確定しきれなかった話しなどもあった。
 
「羽咋市歴史民俗資料館」に行く。羽咋は七尾の間を結ぶ邑知地溝帯の中の町で、能登半島の入口にあたる。歴史とUFOの町。邑知地溝帯の北側の丘陵には滝岬がある。これは日本海沿岸航路の目印となる岬で、一番目立つ場所に古墳が残っている。また、邑知潟というラグーンがあって、良港として使うことが出来る(昭和に入ってから大規模干拓)。その周辺に古代からの遺跡が多く残っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その砂丘の上に寺家遺跡という8世紀以降の祭祀遺跡が残されている。現在は平安期、14世紀後半にあった砂丘の成長によって場所によっては10m近い地下に残されている。ここでは祭具や「神と」書かれた墨書土器、大きな火を焚いたと思われる焼成土の地域見つかっている(左)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これだけの遺跡は他の所では出ていない。8世紀以降渤海使が来るようになったこと、能登が北方世界との関わりの拠点となっていることと関係しているそうだ。大和政権による国家管理であろうとされる。関連ははっきりしないが、文献上この頃から気多神社が公的管理に移され、859年には従一位にまで昇進している。近くにはシャコデ(釈迦堂がなまった字名)廃寺もある。白鳳寺院である。ただ、砂丘の成長と共にここは使われなくなった。
 
続いて気多大社に行く。神社本庁とは別の宗教法人。能登一宮で、社伝によれば古来ここにあったことになっている。本殿では大己貴命(大国主命)、「入らずの森」という聖域になっている奥宮では素戔嗚尊、櫛稲田姫命をまつる。摂社には白山神社がある。
 
また、神社入り口には植え込みの中に「奥津島神社」という舳倉島から来た神を祀っている(舳倉島は奥津姫神社)。気多神社の創建説話と関係のある神だとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて福浦港へ行く。志賀原子力発電所の脇を通っていく。
福浦港は福良港と呼ばれ、遣渤海使、渤海使が出発したところ。北前船の基地でもある。そのための遊郭などもあった。
 
谷に作られた港で、風待ち港でもある。渤海使のための客館や、船修復の工場などもあったはずだが、今のところ発見されていない。平地がほとんどなく、僅かな平地にはびっしりと建物が建っているからである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
総持寺の近くまで行って食事。そば。店主が採ってきた行者ニンニクのヌタ、ソバナのごま和え、ヅトドウフの煮物なども出る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食事をサッと終え、駆け足で総持寺を眺めた。能登地震での修復作業中だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輪島に行き、舳倉島の奥津姫神社で発見された奈良時代の「海獣葡萄鏡」を見る。寺家遺跡のものと同じ。続いて公民館で海士関係の資料を見る。海士は筑前から各地に広がっていった。済州島にもいる。済州島から来たのか、そうではないのかについては、まだ疑問のようだ。倭寇との関係で考えても良いのではないかということだっが。各地の海士は使う器具が共通で、済州島の海士もそう。ただし、植民地時代を経験しているから、それによって共通になったのかは慎重であるべきだそうだ。
 
海士は移動民であるから、地元民との間でいざこざがあった。舳倉島の所有についてもそうだという。それが土着化していく過程などが見ることが出来る。その葛藤が残っていると思われる祭りもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輪島には古代寺院が築かれていた痕跡がある。七尾など内陸でなく、半島の突端に最初に作られたことが面白い。
 
続いて珠洲の揚浜式塩田を見に行く。途中千枚田も見る。これだけ棚田が発達すると言うことは、地滑り地帯であると言うことでもある。はたしてそうだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
能登は塩の生産基地としても発達した。交易の基地、塩の拠点、鉄の取れるところなどとして非常に栄えたところであった。塩は、砂の上にまかれ、そこから塩分を抜く。最初の鹹水は18%、一度24%まで煮詰めた後、塩を取り出す。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
塩をくみ出すためだろう。海中には水路が掘られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて七尾に入り、「祭り会館」による。「熊甲祭り」などの「枠旗祭り」の様子を見る。「旗祭り」の一例である。その隣の「久麻加夫都阿良加志比古神社」による。日本で2番目に名前の長い神社。大伴家持が能登に来たとき、香島(七尾)に上陸して神社のある熊木を目指した。祭神は阿良加志比古神、都奴賀阿良期止神。安羅伽耶との関係を示唆する神である。同時に敦賀との関係も意識させる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌日、あらしの予報が出ていたので、一つ予定を早めて能登島の蝦夷穴古墳を見る。7世紀後半終末期の方墳で、海の方向を向いて横穴式石室が二つ作られている。対岸は七尾、能登の国府があったところである。石室は高句麗式の持ち送り式のアーチ型石室である。直接高句麗人が作ったのか、高句麗の影響で作られたのかは疑問とのこと。この古墳が作られた頃、北方勢力との戦いがあって、能登の人が大挙動員されている。航海術に優れいていること、高句麗からの人びとも来ていることから、影響を受けているという可能性もあるとのことだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旅館「のと楽」に入り、一日が終わった。

 

Posted by hajimet at 09:21 | Comments (0)


2013年4月7日
金沢・能登「古代幻視紀行」1日目 4月5日

富山から金沢に移る。富山のホテルの前は地鉄駅前という路面電車の駅。駅前には「おわら」の笠をモティーフにしたものや、薬売りの像などがある。














 金沢駅は新幹線開業に向けて工事中。正面は完成していて、鼓型の巨大な柱をモティーフにした正面玄関は圧巻だった。京都駅と同じ建築家が設計したとのことだ。














 金沢駅から野田山墓地へ行き、前田家の墓の前で合流。前田一族の墳墓が方墳のような形に整備されている。明治になり神葬に変わったため、江戸時代とは様相が違うそうだ。そのなかに、豪姫(宇喜多秀家夫人)の墓がある。豪姫は朝鮮人金如鉄を育てたことで知られる。
 
文禄慶長の役で孤児となった如鉄を、宇喜多秀家が漢城から岡山に連れてきて、豪姫に庇護させた。8歳の時に金沢に連れて来て、以後前だけの保護の元成長する。関ヶ原の戦いの後、豪姫も金沢に戻り如鉄を育てた。如鉄は加賀藩の士、脇田直賢となった。写真は前田利家の墓(左)、豪姫の墓(右)













 
前田家墓地の近くには『石川県戦没者霊園』がある。西南戦争以来の供養碑(上左)、日露戦争のロシア捕虜の墓(上右)、陸軍軍人の墓(下右)、一般兵の墓(下左)がある。日露戦争のロシア捕虜の墓は、日本が戦時でも「国際法」を遵守している姿勢を見せようとしているときに作られたもの。一等国として認めさせ、条約改正を目指していたときである。旧ソ連大使によって植樹された木が墓を囲む。一般兵の墓の中で、西南戦争の時の墓を見ると、ここが名古屋鎮第に属していたことが分かる。



























 
霊園のすぐ下に、朝鮮独立の志士、尹奉吉の墓がある。尹奉吉は1932年、上海で行われた天長節の式典会場に爆弾を投げ、白川義則大将らが死亡、重光葵らが重傷を負う事件となった。尹は死刑判決を受け、金沢に移され、1907年12月19日銃殺。野田山の通路に埋められた。それを戦後掘り出し、遺骨を祖国に送り出し、遺髪と遺影が野田山に埋葬された。日本史と韓国史で見方が異なるが、韓国では義士の扱いである。














その後昼食。上品なお店だったが、配膳やちょっとした飾りが素晴らしい。
















 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食後、石川県埋蔵文化財センターに行く。ここで今回の講師、小嶋芳孝金沢学院大教授と合流。畝田寺中遺跡からでた墨書土器を中心にお話を伺う。「津」だけでなく、「津司」という文字を書いたものが出ていること。類例との関係からすると、大和朝廷が渤海などとの交易を管理する職として任命した可能性が高いこと、「天平二年」の墨書は遣渤海使の引田虫麻呂が無事に渤海に帰着した年であること。「蕃」と書かれた土器も出ている。
 
この場所が「越前国加賀郡」時代の港に関係した遺跡であって、非常に発展していたことが分かる。しかし、823年越前から加賀が独立すると、あらたに港の機能が移った。畝田田ナベタ遺跡の建物跡などが、その跡だとされる。渤海末期の影響を受けたとみられるバックルが出ている。ただし、渤海使に対する客館あとはまだ出ていないとのことだった。
 
一方で畝田寺中遺跡の方は、この近辺が東大寺の荘園であったことと関係するものが出てくるようになるそうだ。














その様子を実際に石川県庁の展望台まで見に行く。畝田寺中遺跡方面(上左)、畝田ナベタ遺跡方面(上右)。市内立山方向(下左)、市内白山方向(下右)。畝田は加賀でも最も古い地名の一つ。また、砂丘が見えるが、鎌倉時代以来発達したもの。
 
実は、新潟砂丘もそうだし、関東の利根川、荒川水系の自然堤防もその頃発達したという論文を読んだ記憶がある。たしか、温暖化した時期だと思うが、それと関係あるのだろうか。

金沢の砂丘の砂の供給源は白山。しかし、現在は砂防工事をしたために、砂浜が痩せ始めているとのことだ。また、砂丘の終点羽咋付近では砂が細かくなり、海岸を車で走ることが出来るとのことだ。















 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

小嶋教授に寄れば、金沢は「百万石」がクローズアップされるが、その下地が既にあったということと、前田氏も港から城下へ一直前の道を作り、港の機能を重視していたことを指摘していた。湖j魔先生と別れて、西田庭園に行く。残念ながら休園。ここにはキリシタン灯籠などがある。
 
夕食は満開の桜を眺めながら。イサザの躍り食いも絶品。















 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夕食後、兼六園へ。無料開放。桜ライトアップ(上右、左)。灯籠と松(下右:琵琶湖唐崎の松を摸したもの)、海石塔(下左:加藤清正が持ち帰り、前田利家に寄附したもの。朝鮮前期か)。ともかく満開。人でも凄い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 23:26 | Comments (0)


金沢・能登「古代幻視」紀行 前日(高岡、富山)

日韓交流史フォーラムの旅行で、金沢、能登方面に行くが、せっかくなので前日、富山に寄ることにした。朝9時過ぎの「とき」で越後湯沢へ。ほくほく線経由で高岡に向かう。東京は桜が終わっていたが、途中越後湯沢はまだ1m近く雪が残っていた。糸魚川で白山が海に落ち込むところを眺める。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高岡では1時間半タクシーをチャーターして、柳田布尾山古墳を見に行く。日本海側最大の前方後方墳で、小高い岡の上からは富山湾、能登半島(写真)、立山まで見ることが出来る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古墳が築造されたときは、付近は潟が伸びてきていたから、交易の拠点であった。そこに入る船からよく見えるように作られていた。続けて高岡市内観光(30分しかない)散策。町並みを見たり、高岡大仏、古城公園をめぐる。古城公園は桜が5分咲きくらいであった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加賀藩2代目藩主前田利長のときに開いた瑞龍寺(入口だけ)と前田利長の墓所を見に行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
駆け足で市内を見学して高岡駅に戻る。氷見線の車体のデザインや、列車名の表示板が何となく懐かしい。懐かしいと言えば、改札が自動改札でなかったことも。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
富山に戻る。杉谷4号墳を見に行く。富山は神通川がながれているが、よみかたが「じんづうがわ」であることに初めて気がついた。杉谷古墳群の中にある杉谷4号墳は弥生時代の末期から古墳時代の初期に築かれた四隅突出墳といわれるもので、出雲で多く作られているものである。この形の古墳が、北陸では越中に最も多いのである。杉谷古墳群は弥生時代の方形周溝墓からある墳墓群で、この地域の首長層のものと考えられているが、出雲との強い繋がりがあったことがわかる。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この地域から越後にかけて、神社にしても気多神社のように大国主命を祀る神社が多く分布していて(能登を中継地点にして広がったか)、出雲との関係は深いようだ。
 
続いて婦負の里といわれるところの古墳群のうち「六治古塚墳墓」を見る。これも四隅突出墳。その中でも、もっとも墳丘の高さの高いもの。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで、「富山湾寿司」を食べに行く。厚く切った「さより」、赤色のほんのり乗った「ヒラメ」、「アラ」、「シンイカ」、「カニミソ」、「ボタンエビ」など10貫。一緒に飲んだ「勝駒」も美味しい。次に入った店でもメニューにあったので注文したが、「ない」で終わった。寿司を食べたあと、歩いて一度ホテルに戻る。途中、もと神通川筋だった松川の桜を見る。その後、もう一回飲みに行った。

 
 

Posted by hajimet at 20:43 | Comments (0)


2013年4月3日
ルネサンス

ルネサンス
1.背景
  十字軍
    教皇権の失墜
    国王、商人の伸張
    都市の伸張。これまでの都市と異なる「自治都市」の出現
     →都市は自由にする
 
     現実を肯定し、現実の生活が楽しいという商人層の出現する
      ◎神中心の中世の思考と合わない
         ⇒ルネサンス(文芸復興、ギリシア、ローマにヒントを求める)の背景
 
2.ルネサンスと人間中心主義
 人文主義者(詩、歴史、言語に関心、↔神文主義:教会、教皇、聖書)
  ラテン語文献の研究を通じたキケロのインパクト
    人間はロゴスで意思を交わすのだから、学問によって教養(humanitasu)を
     身につけることが必要。
 
  ペトラルカ:ラテン語文献を研究、近代登山の父(純粋に山が美しいから)。
  エラスムス:教会を批判した『愚神礼讃』→「宗教改革」へ
 
 互いに「市民」であるとことの自覚=「平等」の観念の発生。
    「自分がそう感じるなら、あなたもそう感じる」。
      →神の下での平等とは違う観念。

     「人間中心主義」の発生
      万能人
      絵画で遠近法の登場
       自分がそう見えるように貴方にも見えるはず。
 
        ダビンチ、「最後の晩餐」の遠近法:
         その焦点はイエスに向かっているように見えながら、微妙にそれている。
         イエスの背後に向かう(さりげなく焦点をずらす)
           →神中心の世界から離れきれない、中世から近世へパラダイムが
             変わるときで、あからさまに人間中心を表現できないから。
 
3.まとめ:近代思想の特徴
 ルネサンスや宗教改革を経た結果成立

 (1)人間中心:ボッティチェリ「春」は絵の中に「肺」の象徴を描き、人間中心をさりげなく表す。
 (2)個人の自由
 (3)合理的精神:経験と感覚を重視。実験と数学的思考。
    ダビンチ: 書物で自然を学ぶことは愚かだと言う。
           人間の肉体の解剖図を自分で作り、それに基づいて、
           人間を飛翔させようとしていた。
 (4)進歩史観:自然の征服と社会発展により人類は発展する
           この考えがあるから(是非は別として)原発は開発できた。
 
このあと、ベーコン、デカルトへ。

Posted by hajimet at 12:02 | Comments (0)


イスラム教とその影響

イスラム教とその影響
 
単元:イスラム教
    イスラム教 1時間
    その影響  0.5時間
 
導入:
 日本では馴染みが少ない
  アメリカの事件
  欧米の視点を経てイスラムのことが日本に流入するので、イメージが偏る。
 
  実際、分布範囲が広い。
       現在でも南アフリカに勢力拡張中(拡張中の宗教はあまりない)。
       中世はイベリア半島まで勢力圏んであった。
   →それだけ信仰しやすい宗教であると言うこと。
 
展開(1)イスラム教成立の背景とイスラム教
 
発祥地、アラビア半島:遊牧生活地域。部族ごとに多神教を信仰。
      部族同士の争いも多く、その解消が課題になっていた…@。
 
メッカ:(ハンマドの生地)東西交易の要衝。神殿があり、ムハンマド一族が支配。
      活発化した商業による金権支配の打破が課題…A。
 
   @、A庶民が平穏に暮らせる新思想が求められる(ムハンマドの時代)。
 
ムハンマド:40歳のころ、憑霊現象によって神の言葉を聞いたとされる。
        妻より預言者を自覚させられる。
        622年、一神教のユダヤ教の強いメディナに聖遷。その後630年にメッカに戻る。
 
イスラム教の特徴
 @絶対帰依(そもそもイスラムは「絶対神への帰依を」を意味する)。
    神(AL Lah=The God)は超越的な全知全能の唯一の神で、見ることが出来ない。
     →像崇拝は禁止
    (漫画…×、日本人形…×、場合によっては写真も。一方で、アラビア書道は発展)

 A万人平等
    アラーの前ではすべての人が平等。
 
B信徒の実践義務=六信五行
   六信
    唯一神(アラー)
    天使 ガブリエル(ジブリール)
    経典(啓典)
     モーセの五書
     ダビデの詩篇
     イエスの福音書
     クルアーン(完璧なもの、アラビア語のみ)
      →アラビア語だけだから、コーランを唱える地域はアラビア語が共通語になる。
        「啓典の民」:同じアラーの言葉を伝えられたユダヤ教、キリスト教。特別扱い。

特に五行の中で、礼拝、断食を中心に話す。
  メッカの方向の分かる方位磁針、
 今回のオリンピックが断食の時期に当たり、長老会議で許可が出た。
 
礼拝:「アザーン」を聞かせる。
 
展開(2):イスラム文化とヨーロッパ
 イスラム文化:様々な文化を取り入れたり、影響を与えることが出来る文化
   万物平等の思想から、イスラム圏を超えたところとの交易も可能になるから。
      中国から「アラジンと魔法のランプ」などが入っていった。
      日本にはイチジク、ザクロ、獅子、琵琶などが入った
 
ヨーロッパとの接触
    ウマイヤ朝
    十字軍(12世紀ルネサンス)、レコンキスタ
    ウィーン包囲によるトルコブームなど
  
    ・イスラム経由で様々な文化がヨーロッパに入る。
      ギリシア哲学、
      製紙(それまではパピルス、羊皮紙)、火薬、羅針盤、「ゼロ」など
       →印刷術、宗教改革、植民地化、大航海時代、代数学の発達
        イスラム圏で発達した錬金術=科学の発達。
 
    ・コーランでは音楽は禁止。
      しかし、アザーンの旋律性がヨーロッパ音楽の旋律に影響を与える。
        →これがなければ、ポップスは存在し得ない。
       トルコブーム:トルコの打楽器が入り込む。
        →これがなければ、現代のバンドは成立し得ない。
 
    ・ヨーロッパにない概念がヨーロッパに流入。
      アルカリ、アルコールのような単語がヨーロッパ言語に組み込まれていった。
       →これらがルネサンスにつながった。
 
次回は、そのようなルネサンスの思想背景。

Posted by hajimet at 11:41 | Comments (0)


日本仏教(鎌倉時代まで)

日本仏教
 
単元:仏教
本時:前回般若心経を通じて、仏教思想も日本化されていることを見た。そこで、本時では日本でどのように仏教思想が受け入れられていたか、本格的に日本仏教が展開する鎌倉仏教の入口までを見ることにする。
 
1. 6世紀に受容
   当初は藩神として受容される(蘇我氏と物部氏)=文化を豊にすることに繋がる
    …和辻哲郎:そのような日本の文化状況を「文化の重層性」という言葉で示した。
 
2. 聖徳太子
   十七条の憲法(凡夫)
   三教義疏(教義をまとめたとされる)
   「世間これ虚仮…」
    cf. 中宮寺
 
3. 奈良時代:鎮護(護国)仏教。
   この国は仏国土。王は仏陀(弥勒)の化身。律令制度とペアの考え
    聖武天皇(国分寺、大仏など)、鑑真(受戒制度)、南都六宗(仏教)。
      (この辺は新羅仏教と関連づけて話しても面白い…
      奈良の大仏が毘盧遮那ということは、韓国で主流の華厳経の影響)。
 
4. 平安時代:現世利益を求める仏教
   律令制の緩み→護国より現世利益を求める。対象も貴族から庶民へ。
    最澄:延暦寺を開き、独自の受戒制度(死後6日後に許可)、
         法華経を中心に「一切衆生悉有仏性」をとく
          なぜ法華経か→教相判釈〔の言葉は使わずに〕について解説)。
 
   空海:真言密教に基づき金剛峯寺を起こす。
        宇宙の原理を支配する大日如来信仰を行う(大日が出てきたら密教系)。
        「自然」と「宇宙」の融合を目指す感覚が日本にあった(教科書より)
 
5.仏教の土着化:
   (1) 神仏習合:神宮寺、修験道など
      本地垂迹説:仏陀が孔子、神として姿を変えて現れる=権現
               (余裕のあるクラスは「今昔物語」の編成)。
   
   (2)末法思想:社会不安→鎌倉仏教へ
      日本では1052年から末法とされ、藤原頼通はこれによって平等院鳳凰堂を建てる。
      鳳凰堂を池の中の島に建て、中には阿弥陀如来がいる。浄土信仰のあらわれ。
 
     不安の世に現世でなく、浄土にすがろうとしたが
     人が死ぬときは、大騒ぎして阿弥陀をお迎えしたと伝えられる。
 
     空也(阿弥陀聖)や源信(厭離穢土、欣求浄土):阿弥陀への帰依をとく、
     法然:「南無阿弥陀仏」のみ唱えれば良いという浄土宗を起こす。
     親鸞:した法然、浄土真宗を起こす。
 
     日蓮:日蓮宗
         末法の世、法華経に帰依し、「南無妙法蓮華経」を唱えれば良い
 
     浄土信仰:このころの東アジアに共通の信仰(唐、新羅の末期)。
     日蓮の思想:日本独自。
 
◎何れも大陸の複雑な教義を単純化したところに特徴がある。
  題目などを唱えれば「おのずから」救われるという日本の思想の特徴から来る
                                       (教科書より)。
 

Posted by hajimet at 11:15 | Comments (0)


般若心経(大乗思想と日韓での変遷)

般若心経
 
単元 仏教
     インド思想
     カースト制とバラモン教
     仏陀の生涯
     仏陀の悟りと原始仏教
     部派仏教よ上座部仏教
     大乗仏教(2時間)
     般若心経(大乗思想と日韓での変遷)…本時
     日本仏教(鎌倉以前)
 
目標。般若心経を読み下すことで、大乗思想(既習)がどう語られているかを確認すると共に、
    般若心経が日中韓各国でどう捉えられているか、
    特に日本でどう変容していったのかについて学習する。
     
1.導入
 「般若心経」の書いてあるプリントを配り、音を聞かせる。
 
2.展開(1) 
 摩訶般若波羅蜜多心経の解説:大乗思想がどう読み込まれているか。
  4世紀頃成立。
  観自在菩薩=観音がシャーリプトラに語る形式
    すべてが空であることを観音は悟ったが、それは色即是空ということである。
    六根も六境も六識も「無」であり、四諦も無云々を「漢文風に読みながら説明」
 
    菩提菩陀:般若波羅蜜によるため
       アノクタラサンミャクサンボダイ(この上ない悟り)を得る。
          三菩提:完全な悟り(三=完全〔英語のSum、菩提=悟り〕。
 
   この道は偉大なマントラ=真言であって、ギャテーを唱える。
 
まとめ
 ・そのための導入…プリント配布
 「般若心経」の構成をまとめたものと、「如是我聞」で始まる般若心経、絵文字の般若心経。
  サンスクリット版を一部聞かせ、
   本当にアノクタラサンミャクサンボダイとか、マントラとか、ガーテーと言っていることを確認。     
   日本の般若心経、韓国の般若心経を聞かせる(2クラスは盛りあがる)。
 
 ・日中韓で般若心経のとらえ方が異なる(仏教自体も違う宗教と考えた方がよい)。
    ・中国:禅として。
    ・韓国:仏教の真理を強調する経典として
     →禅の思想よりも、最高の知恵を生み出す功徳の経典と捉えられている。
    ・日本:(1)禅のため、(2)神道との融合、(3)マントラを強調した呪術として
 
日本の場合、
 (1) 経典を音読みで読む。
   中国ではある程度聞いていて意味が分かるが、日本ではわけの分からないもの。
   わけが分からない物を不思議なもの=「有り、難い」ものと捕らえ、
   ここに霊力があると考える(神道との融合)。
 
(2) 写経(日本独自のもの)、
   仏説=真理の書いてある般若心経自身が霊的な「パワー」を持つものと考える。
   書かれている般若心経自体が「パワースポット」なのである。
   だから、写経をしてパワーを受けることになる。
 
(3) マントラの呪術:
   夏のテレビで放映される除霊シーンで唱えられる経典=「般若心経」。
   これを唱えて霊を追い出す。
     →「般若波羅蜜多」の力に注目したもの(密教系の流れになる。)
 
次回:般若心経が日本では独自のものになったように、日本仏教の特徴は何か。
 

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対抗宗教改革と隠れキリシタン(2012年度 倫理授業より)

「対抗宗教改革と隠れキリシタン」

 
科目:倫理(都立駒場高等学校2年3クラス) 1時間
単元:キリスト教
 
   ユダヤ教、
   イエス、
   イエスの死と原始キリスト教
   アウグスティヌス
   スコラ哲学
   本時(特別編、まとめ)
 
目標
 キリスト教が日本にもたらされた。これは対抗宗教改革(反宗教改革)の結果である。ザビエルらイエズス会によってもたらされるが、このことが日本にとって有利に働いた。一方で、キリシタン禁止令以降、信仰を保った人びともいたが、彼らの宗教は次第に「土着化」して変容していった。変容しつつ、原型を残すことなど、異文化の受容のあり方を、ザビエル、隠れきしりタンを通じて考えることにしたい。
 
1.導入
  中世のカトリックの腐敗(すべての権威が教会に、cf.トマス・アクィナス)

   →ルターの宗教改革(1517)。
     カルバンの予定説:商業、金融業をキリスト教の側から支える理論である

2.対抗宗教改革(反宗教改革)。

  カトリックの側の改革(1545 トリエント公会議)
  ルターの僅か二十数年後(1534)にイエズス会が設立。
    ザビエル(1506-1552):発起人7人のうちの一人。
 
 イエズス会:海外への宣教を考える。
   →南米、アジアへ進出(両者で異なる状況)。
     南米 :金が出る、インフルエンザで住民が死ぬ、強固な国がない→植民地
     アジア:強固な国(中国、朝鮮、日本)→「植民市」しか作れない(ゴアなど)

 ザビエル=自己犠牲の精神(トリエント公会議、自己救済参照)でゴアに行く。

        ゴアでヤジロウに会い鹿児島に上陸(ルターから40年たっていない)。
        平戸経由で京都まで行く(応仁の乱の混乱で天皇には会えない)。

 ザビエルは日本人を高く評価していた=植民地化への道を歩まなかった。

   他の異教徒と異なり偶像崇拝をしない
     ・神社:磐座などに神を下ろして(依り代)、供物を与えるなどして帰ってもらう
       =祟らずに守って貰う
     ・大日を信仰していた(最初、神を「大日」と訳した。のちに「デウス」に変更)。
       →ザビエルの誤解
 (くわえて)イエズス会は現地の習慣を重視ながら布教することが会の方針

3.日本におけるキリスト教の拡大

  西日本を中心にキリスト教は広まり、コレギオ、セミナリオ、南蛮寺が作られる。
  セミナリオではラテン語、音楽教育などが行われ、かなり成果があった。
  オルガンを含め西洋楽器はこの時期かなり日本に入ってきている。  
 
  →天正遣欧使節使ではローマ教皇の前で聖歌を完璧に歌っている(その歌を聞かせる)。
   …日本人にとって苦手とされる「ファ、シ」の音が正確に出せていると言うことにもなる。
 
    (雑談)明治のお雇い外国人メーソンは日本人にこの2音を出させることは
    絶望的だと悩んだが、そうではなかった。(今でも不安定な音)。
    小さいときから教えた結果だろう。
 
4.禁教
 禁教後の方向は3つある。(プリントを使いながら)
  (1)改宗
  (2)信仰維持(隠れて)。
    隠れた集団同士の接触はないし、新しいものは入ってこない。
    →自然に変質し土着化
      (例)葬式:お経を上げている脇で、お経の効果を消す「おらしょ」をあげ、
        十字架の様な形をした紙を持たせる。
         →それがどういう意味かは次第に分からなくなる。
 
      「おらしょ」のなかにはデウス、アベマリア、キリヤ、ケレドなどの言葉も残っている。
         →その意味は分からない(元の聖歌はかなり分かっている)。
         →これを唱えられないとおじいさんを祀ることも出来ないからと覚えるだけ。
         (「おらしょ」の一部を聴かせる)

 
 (3)イメージを残す。
    禁教になり聖歌を歌うことは出来なくなる。
    西洋楽器もキリシタンとの関係で完全に毀される。
    →琴など他の楽器で伴奏部分だけを演奏して、本来の曲をイメージする。
      (コード進行だけで本来の曲を連想するようなも>の)
 
    →そのうちに、聖歌というイメージは消え、伴奏だけが残る。
     ◎それを整理した曲が箏曲「六段」。
        (元の曲と、琴と重ねた演奏、六段を少しずつ聴かせる)。

5.まとめ
  結局、異文化と接触するときは変容して受け入れられる。
   (同じジーンズでも日本、韓国、中国では履きこなし方が違う)、
  キリスト教の場合、断絶を経ているから、大幅に変容し土着化する。
 
  その場合でも、「遺伝子」はどこかに残る。
 
最後に:ザビエルの夢、日本に法学、神学、医学部を供えた大学を作ること。
      →1928年に実現:上智大学
 
 

Posted by hajimet at 09:50 | Comments (0)


2013年4月2日
2012年度韓国語授業(ハングルを読もう)

ハングルを読もう。
対象:ハングルを学び始めたばかりの生徒(2時間)
    아야어여が終わり、有声音化、パッチムとリエゾンを覚えたところ。大体6月中旬。
    (激音化、濃音化には触れていない)
目的:自力で読むこと。
    意味は分からなくとも、読むことは出来ることを実感させる。
    →ハングルの定着の第一歩。
 
教材:日比谷、新宿、桜修館 I LOVE  YOU
    杉並総合、葛飾総合 ちびまる子ちゃんのテーマ(リエゾンがほとんどない)、
                  アンパンマンのテーマ(こちらの方が簡単)
 
授業:歌詞を書いたプリントを配布
    動機付けをしたのち、班に分け、一行ずつカナダラ表を使って読ませる。
   読み取ったものを一行ずつ(あるいは意味の纏まりごとに)黒板に書かせる
     →ここではカタカナを使う(本当に読めているか確認するため)。
    一行ずつ、CD(DVD)を聞かせ、合っているかどうか確認させる。
   (合っている、違っている、よく分からない〔聞き取り能力も違うので〕)
   違う場合、何が違うのか説明する。
 
   I LOVE YOUの場合、鼻音化、激音化が出てくるので、教科書を使って説明。
 
結果、感想  ・一生懸命取り組んだ生徒は、表を使わなくともおよそは読めるようになる。
         ・自分が読み取った音と、聞いた音が一致することで、
          本当にハングルだけで読める(英語と違う)ことを実感する。
         =ハングルに対する抵抗感が減る。
 
写真は日比谷高校と葛飾総合高校(2012年は撮影していないので、2011年のものを使用)
日比谷高校(2011年、おじいさんの時計版)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛飾総合高校

 
 

Posted by hajimet at 13:56 | Comments (1)


2012年度の韓国語授業(新聞を読もう)

新聞を読もう 10月頃
単元:辞書の引き方(4時間のうち後半2時間)
教材:新聞記事
準備:辞書 コスモス朝和辞典を推奨(推奨理由は最後に書く)
 
前の時間に辞書の引き方を練習した。実際に辞書を使って新聞記事を読んでみる。
(獅子は千尋の谷に…)
「表向きの目的」は、辞書になれること。
 
記事のプリントを配布。
連体詞などは辞書形(原形)を示し、そこに(連体)とか(過去)と記入。
*辞書を引いて、それを指示通り繋げると読めるように配慮(影の目的のために)
 
黒板にプリントの文を数段ずつ分けて書き写す
グループ分けをして意味を調べさせる。調べた日本語を黒板に書く(競争)。
 
教室の雰囲気

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
辞書に出てこない単語も極力ヒントで探させる。コスモスは単語数が少ないため(影の目的2)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実際に書かせたもの。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここでの目的は、すらすら読むことではなく、
辞書を引きさえすれば読めると言うことを実感させること。
 
引いている最中に意味を押さえながら読んでいるわけではない。
黒板に書いて、それを眺めてみると、文章になっていると言うこと。
 
つまり、文法的に日本語と非常によく似ていることを実感させ得ることが本当の(影の)目的。
実際に頭で文法構造が同じだと分かっていても、それでだけでは不充分で、
実感させることが大切。そのような感想を述べた生徒も過去にいた。
 
同時に韓国語漢字語と日本語の漢語の音、形が似ていることも実感できる。第二の目的。
これも授業では意識的に話をするが、中々実感できない。
 
そのようなことが出来る教材を探すことが大切。
 
コスモスを推奨する理由。
・単語帳から出発しているため、説明が非常に丁寧(大前提)
 
・語彙数が少ないが、重要語句かどうかがわかる。
・カナもついているので、高校現場では扱いやすい。
・なかなか全員、ハングルをそれなりに読めるレベルには行かない(2012年は例外)
(かつて、ハングルが読めないのに、字形だけで辞書をひきこなした強者がいた…)
 
そして何よりも、
「第3語基の形で引くことが出来ること」
文法書としても優れているし(ここは学習が相当進まないと使いこなせない)、
索引機能を使って、和韓辞典の役割も出来る。
 
授業を習った記念として…
 
 

Posted by hajimet at 11:34 | Comments (0)


2012年度 韓国語授業より(ハングル書道)

2012年秋 日比谷高等学校(2年)、桜修館中等教育校(4年)
 
単元  :文化学習(書道文化、芸術を体験する)
時間数:2時間
教材 :韓国の教科書を編集したもの。
準備 :書道セット(中学校まで授業で使っているので、ほぼ全員持っている)
 
韓国では書道は「書芸」といって、芸術の時間に扱う。
日本は中学校までは「国語」、高校で「芸術」。
 
導入
 1.様々な文字の書を見る(アラビア文字、東南アジア文字、ハングル等)。
 2.ハングルは系統的に特殊な地位にある。漢字、アラム文字系(パスパ文字)の影響
 3.ハングルも筆書き中心の時代に作られているから、当然書道の対象。
 4.運筆法は日本のものと異なる(日本よりも筆のコシが弱いため返しとヌキが違う)。
  (参考写真 国立中央博物館にて)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 4.ハングルデザインも盛ん。
   単純な線で構成されている文字だから、字画の接続関係さえ間違えなければ、
   かなりデフォルメしても文字として認識でいる。
   日本語は「や」を少しデフォルメすると「か」や「せ」になるが、そういうことはない。
   昨年の例を見せる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
作業
 1.冊子を見ながら、版本体、宮体、くずし体(余裕のある人のみ)を練習。15分程度ずつ。
 2.好きな言葉を選ぶ(冊子に出ている言葉でなくても良い)。
 3.うまく行ったものを提出。
 4.ハングルデザインに挑戦しても構わない。
 
作品 
日比谷高校(氏名は消してあります 桜修館も同じ)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜修館中等教育校

Posted by hajimet at 10:38 | Comments (0)