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2014年4月30日
日本史授業 20140428 開国とその影響(2) 日米修好通商条約
前回続き
(2)日米修好通商条約
・開港場:神奈川(横浜)、長崎、兵庫(神戸)、新潟(+箱館。下田は閉じる)
      居留地は警察権が及ばない。教会の設置が認められる(全国は1873)。

       長崎の大村教会は居留地の中に築かれた教会であるが、潜伏していた
       地元の隠れキリシタンも礼拝に来た。
       それがばれて、多くの人が弾圧された。
・開市:江戸、大坂
      逗留のための居留地(警察権が及ぶ)。東京は築地。墓地は青山墓地

・自由貿易:幕府の貿易統制が出来なくなる。
・領事裁判権(治外法権は若干意味が異なるので、使わない方がよい)

「万国公法」上、日本は半開国に属する(文明国、半開国、未開国)。未開国は文明国が植民地にしても構わないが、半開国は伝統があり強固な王権があるため、植民地にはしない。ただ、法制度が異なるために、文明国民に対する法の適用はしないようにさせた。また、実際に鈴ヶ森、小塚原、神奈川の木戸口などで処刑された人を見たら、同じ法で裁かれたくないと考えた。
                  
    cf.「首」、「県」の字源

・税率:輸入は0から35%(大部分は20%)。輸出は5%(5年後に見直し)
   関税自主権は無し。

日米和親条約との関係は、和親条約+修好通商条約という関係。下田港のように、和親条約の内容を変更する場合は、修好通商条約で修正する。したがって、片面的最恵国待遇は引き継がれることとなる。

日米修好通商条約は3点に於いて不平等条約であるが(領事裁判権、関税自主権なし、片面的最恵国待遇)、この3点を解消することが今後の課題となる。半開国から文明国に格上げされることが重要だった。そのため「涙ぐましい努力」を行った。それでも、領事裁判権などが解消するのは明治の後半であるし、完全に平等になるには大正に入るまで待たなければならなかった。

1858年には同様の条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結んだ(安政の五カ国条約)。そして、その批准のために、1860(万延元)年、外国奉行新見正興が渡米(条約は締結手続きと批准の手続きが必要)。咸臨丸で太平洋横断(勝海舟)。

   cf.最初のアイスクリーム。

(3)影響
開港することによって、日本は資本主義の国際経済の波に呑まれることとなった。資本主義は市場経済、自由経済ともよばれるが、経済活動を自由に行うことが、結果的に経済を安定させ、発展させると考える(cf.アダム=スミス:「神の見えざる手」)。しかし、一面においては弱肉強食の世界でもある。負け組に入るとなかなか這い上がることが出来ない。当時の日本は圧倒的に経済的には弱者であった。そのため経済的に植民地化される可能性も十分あった。半開国が未開国扱いになるということである。

1)1859年より横浜、長崎、箱館で貿易開始。イギリスが中心。アメリカは南北戦争により力が落ちる。

輸出:生糸、茶、蚕卵紙(フランス、イタリアで蚕の病気が流行ったため)、海産物
輸入:毛織物、綿織物、鉄砲、艦船など
                      …続く
   


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2014年4月26日
日本史授業 20140425 ペリー来航(2)、開国とその影響(1)

ペリーは琉球へと去ったが、ペリーがいるときは江戸は混乱状態であった。
4隻で来た黒船が品川では10隻に増え、江戸には90隻で来たと伝わってきた。
江戸周り航路が停まったため、江戸に米が入らなくなった。
 「泰平の眠り覚ます上喜船 たった四杯で夜も眠れず」
 「アメリカの米よりくはぬ国なれど 日本人は粟をふくなり」
 
6)ロシア
ペリーが一度去った後、1953年7月、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した。
 要求事項:国交、国境線の画定
 
1953年はクリミア戦争(ロシア×イギリス)が始まった年。本来はそちらに集中する時期であるが、米国がイギリスの潜在的友好国であるため、英国を牽制するために条約締結を要求した。イギリス船もロシア船を追いかけ長崎に来るが、英国は日本との通商、国交にそれほど関心が無かった。
 
7)日米和親条約(神奈川条約):1854年3月3日
 条約文を読む→解説→板書の順で
  ・国交
  ・捕鯨船の難破船の救助、保護
  ・米清航路の薪炭食糧補給のための寄港
  ・(そのために)下田、箱館開港。領事派遣、自由移動地域(27里:1里≒4Km、1町は≒400m)
  ・片面的(片務的)最恵国待遇(条文に則して内容を説明)
 
 ※通商については日米和親条約では扱われていない。
米国側は箱館、神奈川、浦賀、鹿児島の開口を求めたが、神奈川、浦賀については下田を、江戸湾の入り口にある良好として紹介して、そちらにした。函館はアメリカ側からの要求。
 
領事(大使、公使との違いは説明済み)の来日については、日米で条文の解釈に違いがあって、のちに問題となる。
 
8)他の国とも同様の和親条約。
 オランダ(54)、ロシア(54)、イギリス(55)
   ロシア:ウルップ島以南を日本領(北方領土問題の日本側の根拠)。樺太は共同管理。
   イギリスは日本に対する関心が弱いため1年遅れた。
 
9)幕府の対応
老中の阿部正弘(秀才、温厚、人望あり)は「鎖国は祖法」を転換すると言うことでなく、日本の一大事と考えた。そのために日本中まきこんで、危機意識を煽ろうとした。そのため
 ・朝廷に事態を報告=朝廷は形式的に将軍に征夷大将軍の位を与える立場であるが、
      それ以上のことはしなかった。京都で勉強に励む人という程度の位置づけであった。
 
 ・大名から足軽、町人に至るまでペリーにどう対応するか意見を募集
      これまでに無かったこと、
 
しかし、結果として朝廷の権威が上がり、大名に幕府に対する発言の機会を与えることになり、阿部正弘の思惑とは異なる方向に行くことになった。さらに
 ・安政の改革
   徳川斉昭(元水戸藩主)幕政に△
   松平慶永(越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)と協力
    いずれも譲位派。攘夷派を幕政に組み込むことで攘夷論を抑えることと、
    急進的改革派を抑えようとした。
   国防強化
    台場、大船建造の禁を解く。講武所(江戸)、海軍伝習所(長崎:勝海舟、榎本武揚)
 
開国とその影
1)ハリス
 1856年7月 ハリス下田に来る。日本側は双方の交渉の上来ると考えていたので、驚く(条文の解釈の違い)。ハリスは通商を要求するために大統領の親書を携えて将軍に謁見(1857年10月)。
 
これに老中堀田正睦は条約調印の勅許を求めて京都に行った。攘夷派から勅許がなければ条約締結は認められないと言われたためで、勅許は降りないだろうと考えていた。というのも孝明天皇をはじめとして公家は開国に反対の雰囲気が強かったから。案の定、勅許は得られなかった。1858年4月、井伊直弼が大老に就任すると、勅許なしに日米修好通商条約に調印した。この勅許なしに行ったことは、この後しばらくの間、大きな問題となる。
 
(条約を読みながら板書)
神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港
(神奈川は実際は少し離れた横浜(今の桜木町付近)。防衛のため。兵庫も似た条件。新潟は信濃川の河口で、上流からの砂と、季節風の砂で浅くなりやすい海)。
開港場に居留地:事実上租界(日本の警察権は及ばない)
 
江戸、大坂の開市、そのための居留地(逗留地:警察権は及ぶ)
 
…次回再び日米修好通商条約から。
 
 
 

Posted by hajimet at 11:40 | Comments (0)


杉総・韓国語授業報告 20140416

第1回目:初級(19名)。ある程度学んでいる生徒が数人。ちょっとハングルが読める生徒が半分くらい。
 
1時間目は自己紹介。2時間目から授業。

1時間目に自己紹介をするときに「○○ッシ、プッタッカムニダ」と声をかけて、導入。
 「前の時間にッシって言ったけれども、何」→「さん、です」
  ではALTに見本を見せてもらおう。「キム○○氏→イェ」。
  同じように机間巡視をしながら生徒に言わせる。
 「○○ッシ」→「イェ」

続いて、「アンニョンハセヨ、チョヌン キム○○イェヨ」
「○○の所に自分の名前を入れて行って見よう」(机間巡視で練習)
「アンニョンハセヨ チョヌンキム○○エヨ」→「チョヌン○○エヨ」。「パンガップスムニダ」
 
途中から言葉を加える。同じ答え方でよいと指示。
「アンニョンハセヨ チョヌン キム○○イェヨ。イルミムォエヨ」
  →チョヌン○○イェヨ。
「チョヌンは?→「私は」です」。「イェヨ(エヨ)は→「です」です」。
「イルミ ムォエヨは何かな?→名前は何ですか?です」
(特に答えを教えないで、聞かれていることを想像させる手法をとる。
 
 続いて「金先生。どこに住んでいますか」(韓国語で)
「○○エヨ。チブン ○○エヨ。」
再び机間巡視
「自己紹介。挨拶、名前を聞く。チブン○○エヨ→(生徒)チブン○○イェヨ」
途中から、「チビオディエヨ?」を加える(イルミムォエヨと同じ要領で)。
「チビオディエヨは?→「家はどこですか」です」。
 
さて、学校は「ハッキョ」と言います。ハッキョイルミ ムォエヨなら何でしょう? 
「学校の名前は何ですか」です」
(イルミムォエヨを言って意味を確認してから、ハッキョを付けた)。
 
杉並総合ハッキョ→ALTとコドゥンハッキョの発音練習をする。
では、「ハッキョガオディエヨは?………杉並区エヨ」。
 組み合わせて練習。机間巡視しながら、どちらか選んでをALTに聞いてもらう。
 
それでは、もう少し足します。
「ソンセンニム、ハングク チビ オディエヨ…チェジュドエヨ」
(いくつかハングクが付く文章を付けて、生徒に「韓国だ」と分かってもらう。次いで、イルボンも。
 板書でカタカナで書く場合はハングク、イルボンとする(簡単に子音の観念を説明)。そして、イルボンサラム、ハングクサラムまで導入、練習をしたところで、かなり疲れが見えてきたので、会話練習はお終い。
 
その後、教科書から、「お会いできて嬉しい(パンガッpスmニダ:pとmの部分はALTの口を見せて、どう発音するか確認させる)」、「有り難うございます」。「いただきます」、「ごちそうさまでした」、「大丈夫です(アルバイトの店員に水をかけられて、挙げ句の果てにケンチャナヨと言われた話をする(疑問形ではなかった)。「左様なら」を練習して、授業終了。

Posted by hajimet at 11:26 | Comments (0)


倫理授業報告 20140425 青年期

青年期

児童期、青年期、成人期と移項するが、すでに児童期と同じ行動は出来なくなっている。
小学校の高学年になるとギャングエイジといって、何でも徒党を組んで行動していたはず。
 
(1)青年期とは
 「第二の誕生」(ルソー 『エミール』)
     第1の誕生 生存するため=人間として
     第2の誕生 生きるため=男性、女性として
 「疾風怒濤の時代」(ゲーテ『若きウェルテルの悩み』。
 
(2)区分(色々な分け方があるが一番分かりやすいものとして)
  前期:中学校(まだ児童期の要素が残っている時期)
  中期:高等学校
  後期:大学(成人の要素が強くなってくる時期)
 
(3)青年期の原因
第2次性徴がおこるから。
性ホルモンの関係で突然身体が変化する。それまでも緩やかに成長していたものが、突然伸張が伸び始めたり、声変わりしたり、体つきが変わったりする。それとともに、子供が産める、作れる体に変わる。性的衝動も起きる。これまでの自分と違った自分が突然出現することで、「自分に何が起こっているのだろう」という一種の混乱状態になる。
 
一方で「自分に何が起こっているのだろう」というところから、「自分って何?」と考えるようになる(無意識に)。それにより「自我=自分を外から客観的に見つめられる状態」が目覚める。そして、自分をよく評価したり、悪くしたりする。また、最初のうちは容姿に注目が行くため、突然化粧を始めたり、髪型を気にするようになる。さらに自分は認められているのか、そうでないのかとか、もっと性格を良く出来ないかなどと悩むようになる。
 
自分が何物かに注目すると言うことは、親との距離のとり方も変わることを意味する。それまでは親のもと「良い子」であれば良かったわけだが、「自分が自分であること」に意識が向けば親との距離のとり方も変わってくる。「親とは違う自分」を意識するようになるから。だから、親の言うことが「うざったく」聞こえることもあって、つい反発してしまう。つまり「心理的離乳」の時期であり、「第二次反抗期」の時期でもある。
 
(3)青年期の時代的変化
だが、青年期は昔からあった訳ではない。元服を行うと翌日から大人だった。名前を幼名から大人の名前に変え、髷も変わる。その日から大人である。バンジージャンプとか猛獣を射止めることが出来ればその日から大人という部族もいる。
 
このような「通過儀礼(イニシエーション)」を経て大人になる。これらの儀式はどれも擬死体験(子供の死と大人としての再生)の様子を持っている。子供の時の名前はもう使わないわけだから。つまり子供と大人しかなく、子供は「小さな大人」であった。だからシンデレラの前半の話が成り立つ(母親に大人と同じ仕事をさせられる)。
 
この辺りのことをマーガレット・ミードは「サモアの青春」で明らかにした。
 
しかし、身分制度が崩壊し、職業選択が自由となると、それまで家庭などで行われていた職業教育が出来なくなる。医者の家は医者となるように定められ、医術を身につけたら、「明日から独立だ」というわけにはいかないのだ。
 
だから、教育機関で職業に就けるための基礎教育をするようになる。すると、体は大人(子供を産める、作れる状態)なのに、社会の要求する大人になる時期はもっと後になる。体が大人になってから、社会の要求する大人までの間は「子供でもない、大人でもない。もう子供じゃないんだから、まだ子供なんだから」の期間。これが青年期。レヴィンは周辺人、境界人と言った。
 
2枚繋がった切手の絵を描いて、絵の部分が児童期と成人期。この両方の間の白い部分が青年期。どちらから見ても余白。どちらにもなれない。この部分をマージンという。周辺人の元語は「マージナルマン」である。
 
だから今子供の格好をして一緒に追いかけっこをしたり、砂掘りをしたりは出来ないはず…。かといって大人のつきあいも出来ないはず。
 
だが、このような期間は時代を経るとともに長くなっている。理系は博士(研究者として自立できるのが博士)まで行くことが必要となる分野も多い。社会に出るのはそれだけ遅くなるから、「青年期も延長」されることにある。

 

Posted by hajimet at 10:49 | Comments (0)


2014年4月22日
倫理授業報告 20140221 人間とは(2)

前回の続き 人間とは(1)言語を使う動物、(2)集団生活をする動物
 
(2)集団生活。
(前回からの続き)人間が集団生活をするための規範には、道徳、慣習、法律などがある。このうち道徳は内面に働きかけるもので、現実社会における制裁はない。慣習はマナーなどで、これを破ると社会的制裁がある(日韓の食事のマナーの違いを例にして説明をした。人と接するときの距離の違いを使って説明したクラスもある)。法律は国家が制裁する。人の命も奪える最も強い制裁を持つ規範。
 
人間は社会の中で生活するから、その社会の中で人間が形成される。それだけに、その時代とともに変わる社会の中でどう生きるかが問題になる。時代により判断基準が変わるから。
 
一方で人間であるという枠組みの中で、時代を超えて追究される普遍的なものもある。「よく生きる」=人としてどう生きるかである。普遍性を持つから、古代ギリシアや古代中国の思想が今でも問題になる。
 
実は、社会の中で「生き始める」時期が青年期。肉体的にも精神的にも発達するから。「それまで家族の言うことを聴いていれば良かったのに、最近は親の言うことは「うるさく」感じるでしょ?反抗していない?」。「当然反抗していま〜す。」だから考えることが必要。
 
(3)人間とは(先人の言葉)
  考える葦…パスカル。
  天子にも悪魔にもなる…ペスタロッチ
 知性人(ホモサピエンス)…リンネ
 宗教人(ホモ・レリギシースス)
  工作人(ホモ・ファーベル)…ベルクソン
 遊戯人(ホモ・ルーデンス)…ホイジンガー
 
遊戯人について
(導入)「何部?、何故それをやっているの?。それをやることで何かメリットがあるの?」と
 
 遊戯は何の物理的利害とも結びつかず、利得を求めるものでもない(純粋にやりたいからやると言うこと。それで金を稼ぐとか、名誉をえるということではない)。
 
しかし、規定した時間(部活の時間)と空間(サッカーはサッカー場で)で、厳格に決められた規則に従う(サッカーボールを手に持ってタックルはしない)。そして秩序正しく進行する。
 
秘密に取り囲まれ(サッカーの細かいルールはサッカー部の人だけで共有。他の人は知らなくて良い)。日常生活とは違う(勉強時間が日常、そこから解放)。そのため変装する(部活ごとのユニフォーム、バスケのユニフォームでサッカー部が活動することはまずない)。
 
そんながんじがらめなのに自分がそれを受け入れ従っている。絶対的に拘束される。だが、そのような空間だからこそ、新しいことの発見などがある。そのようなことを言っている。
 
では、自分たちで「人とは」と定義したらどうなるのだろうか。
 
次回は青年期(1)

Posted by hajimet at 21:15 | Comments (0)


日本史授業20140421 欧米の進出(3)、ペリー来航(1)

4)アメリカ。
アメリカは領土的野心がなかった。
アメリカは日本に米清貿易の寄港地、捕鯨遭難者の救済と寄港地を求めた
 
これは日本にとって幸運だった。このようなアメリカが最初に開国させたから、他の国もそれを基準として条約を結ぶことになったからである。
 
当時のアメリカは捕鯨大国で年間1万トンの鯨を捕っていた。油を取ることが目的であって、それ以外を利用しようとしなかった。クジラを大西洋で取り尽くしたため、太平洋側で陵をするようになったが、漁場は日本近海であった。そのために遭難者の救助や、薪炭供給が必要だった。
 
一方アメリカのフロンティアは19世紀半ばに太平洋岸に達した(これが太平洋上を進み続け、太平洋戦争に繋がる)。1848年にはゴールドラッシュが始まったこともある。そうなれば、喜望峰まわりで中国に行くよりも、太平洋を横断する方が早い。これらが重なった。
 
1846年、東インド艦隊司令官のビットルが浦賀に来る。しかし、「アメリカ的フランクさ」で接しようとしたので、日本側に受け入れられなかった。
 
5)ペリー来航
 次いで、1853年旧6月、ペリーの率いる黒船が来航した。1年以上かけて来た。朝の浦賀では、霧の中、突然大きな船影が現れた。余りの大きさに大島が動いたと思った漁民がいたほど。船の名前はサスケハナ号。川の名前と原住民の部族名から付けられた。
 
木造船で黒く塗られていた。動力は3本の帆と蒸気水車。全長78.3m、幅13.7m、喫水6.25m、最大速度10ノット。対する千石船は1本の帆、甲板無し。全長29m、幅7.5m、深さ2.4m、速度7ノット前後。黒船の方が、縦横ともに千石船の2倍以上。当時、世界でも最大級の軍艦だった。
 
ペリーは日本のことを、シーボルト『日本』、ゴローニン『日本幽囚記』通じて勉強していた(勉強せずにきたビットルは違う)。その結果、日本人は、仕事をよくし、仕事が早く、世界有数の教育国で、細かい手工芸や細工が得意(だから日本人の手は細いという誤解)と認識していた。
 
このような評価をしたペリーは、開国させるためには虚礼を守るか、高飛車になるかしかないと考え、結果的に後者を選択した。
 
でもなぜアメリカが開国に動けたのか。ロシアでも、イギリスでも、フランスでもない。

ヨーロッパではフランス二月革命の混乱が続いていた。また、ロシアのクリミア半島進出に対して、イギリスと対立した「東方問題」が起きていた。そのため、アジアに力を注ぐ余地がなかった。だからアメリカが最初に開国させることが出来た(その後、アメリカも南北戦争が起きる)。
 
アメリカ大統領の天皇宛の親書では(以下史料を読み解く)(1)捕鯨難民の救助、(2)貿易船の薪炭提供、(3)自由貿易を要求していた。この要求を老中阿部正弘は一年後の回答を条件に受け取った。国内の調整が必要だったから。各藩の利害関係の調整も必要であるし、天皇との関係も潜在的に調整が必要となるからである。(次回は阿部正弘の動きと日米和親条約)

Posted by hajimet at 20:46 | Comments (0)


2014年4月20日
授業記録(20140418)。ハングルで五十音を。

【導入】
生徒の名前を黒板に書く。その中から読み取れる法則はないか「発見」させる。
「ア行はOで始まっている。ア段はトみたい。イ段は|…」。
  (ここまで「発見」させられると後が早い)。
 
 「おっ、すごい。これだけで母音が分かるから、きっとこれ読めるよ。
아카사카미츠케(最初、아 xㅏ xㅏ xㅏ xㅣㅡ xㅔとしようと思ったが思い切って)」。
近くの地名。しばらく眺めていたら全員がニヤニヤし始めた。そこで聞いて見る。
「赤坂見附でしょ?」。
 
【展開】
ここでで50音表を渡す。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
縦軸が日本語の順番でaiueo、横軸が韓国語の子音の順番でg,n,d,r,m,b,s,a,j,ch,k,t,p,hになっている。日本語と韓国語の語順をハイブリットしていることと、ㄱㄷㅂㅈをgdbjとしているところが特徴。五十音表を作る作業の過程で無意識に、韓国のカナダラが入ることを狙っている。
 
まずアを探させる。
「縦にも横にもaがあります?」
「韓国語は部品だけで書けないから、a段のaiuという意味」。
そして、それぞれの書き方を説明する。
「ㅏ:「ト」にしない。かっきりと。ㅣ:途中で力を抜かない。ㅜ:Tと縦横のバランスは逆。ㅔ:縦棒2本はなるべく近づけて。ㅗ:ㅜと同じバランスで」。
「活字では地図記号の果樹園みたいな字でかかれるのだが(爆笑)、Oでよい」
 
続けて、gから始める。
「フトにならないように」、
「カトーさんのカもgで書く。実は韓国人はgと言っているつもりだが、日本人にはkと聞こえる。日本語でも、[N]は韓国人や英語を話す人には音を使い分けているように聞こえる(同様のことは促音でもできる)」。
当然変な顔
「かんだ、かんがえる、かんむり、かん」…発音させる。口の中を意識する習慣がないから、「ん」に聞こえている。口の形を説明してから1回確認させる。口の形が違うということは出る音が違うが、我々は「ん」として聞こえている」〔口の中を意識させる伏線〕。
 
「韓国語は言葉の最初は濁らない。
だから金閣寺と銀閣寺は大変な問題。
逆に後藤さんはコトーさんとしか発音してくれない。」
 
カナダ表を最後までやる。
「すずきさん、可哀想だね、スジュキさんになる。銀座はキンジャ。」
「韓国語にザ行はない」
 
二回「カ、チャ、タ、パ」が出てくることについて、
官顧具の出来る生徒に二回目のカで「加藤」と発音激してもらう
「まるで喧嘩しているみたい」。
「二回目の「チャカタパ」は激しく聞こえる音で激音という」

ここまでやってから、一気にカナダラと激音を導入する。飽きるまで繰り返す(まるでトランスレーションの世界)。
 
その後ヤ行(「ミャは?」。今まで出てきた誤答例も示す。一人だけミヤになっていた)、
 
ワ行(オアと発音させることを徐々にスピードを上げながら反復し、早く発音すると「ワ」になることを実感させる。これについては、新方式を発見した。オ、アを短くするのではなく、オーアーと音を切らずに発音させ、テンポを上げる。よほど意識的に発音しない限り早い段階から融合が怒る)。
 
最後に「ん」「促音」を扱い、パッチムの概念を導入。また、韓国語は音の長短を意識しないので、長母音は短母音で書いて良い。「おばさん、おばあさん、おおおばさん、おおばあさん、おおばさん」はくべつ付かない。「りょうた」は「りょた」で良いし、どうしても書きたければ「りょおた」と発音通り書くことと説明する。
 
【まとめ、次回への展望】
自分や友人の名前をハングルで書き、若干の課題めいたことを出す。次回は母音も韓国式にする。
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

Posted by hajimet at 09:03 | Comments (0)


2014年4月19日
日本史授業20140418-2 欧米の進出。開国前夜(2)
3) イギリス
ロシアに続けて来航(1808)。

1808年 フェートン号(長崎)
(年表を見る)1804年 ナポレオン法典
       1805年 トラファルガー海戦
       1806年 大陸封鎖
       1814年 ウィーン会議

ヨーロッパではナポレオン戦争が行われていた。
長崎出島のオランダ商館を攻撃しに来た。船はオランダ国旗でカモフラージュ。
この当時オランダは日本に来フェートンは出島のオランダ商館を攻撃しようとして来た。オランダ=フランスだったから。

そのようなことが続いたため、1825年、幕府は異国船打払令を出す。
 史料:「打ち払いの所」と「間違えても構わない」の部分に線を引く
  
しかし、イギリスは軍事力によって強引に植民地化を進めていた。
1840年にアヘン戦争、1856年にアロー号事件(アロー戦争)。

アヘン戦争はイギリスがインド、中国と三角貿易を行おうとした結果である。
イギリスは中国に輸出するものがなかった。
そのため、中国から金を回収することが出来なかった。
それを回収するため、インドからアヘンを送り、
インドを通じて中国の金を回収しようとした。

 cf. アヘンと覚醒剤の違いについて
 cf.アロー号事件のきっかけについて。

アヘン戦争の様子をみて、不慮の攻撃を避けるために、幕府も体制を改め、
1842年、天保の薪水給与令に改めた(史料)。

1844年、オランダ国王も日本に開国を勧告した。
     自国だけで日本貿易を独占出来なくなったこともある。
Posted by hajimet at 13:22 | Comments (0)


日本史授業20140418-1(欧米の接近1 開国前夜)
開国、
1) 背景。ヨーロッパの変化。
   ・民主主義
   ・産業革命の進展。

 a 蒸気機関の改良(1772)、蒸気機関車の登場(1802)、蒸気船の大西洋を横断(1838)。
  cf.大西洋と太平洋の文字の違いの意味
   〔マゼランの航海と西にある大洋…ハワイが有るか無いかではない)。

 b 大量に安価に生産できるようになったこと。
     原料供給地と市場が必要となる。
     その結果植民地化が行われる+軍事力。
  19世紀後半まで力による植民地化が行われる
  (韓国を植民地にした時は力による植民地化が無理になってきた時期)。

2) ロシア
まず日本に来たのはロシア。
ロシアは15世紀中頃に発展しはじめ、18世紀中頃には沿海州、18世紀末にはアラスカまで進出する。

ロシアのキーワードは南下政策と東進政策〔と言う言葉はないが〕。
  cf.いまのクリミア半島情勢。⇒ここに勢力の衝突がおきると大きな戦争になる。
    かつて数回大きな戦争が起きている。

ロシアのアラスカ進出により、アラスカ−中国貿易が始まる。
陸路やウルップ島を中継地にするのは不便。
同時に千島列島の漁業の問題が出てきた。

そこで日本と交易を求める。
 1792年 ラックスマンが根室に来航(エカチェリーナ二世のとき)。
  船を長崎に回航した後(長崎奉行所:外国に対する唯一の奉行所)、
  鎖国(多分当時は違った言葉を使った)は「祖法」として帰国させた。

つづいて1804年、レザノフが来航。幕府が冷淡だった目、樺太と千島を攻撃して帰国。 幕府も対応として蝦夷地を天領とし、間宮林蔵を探検させて、樺太が島を発見した。
ロシア側はアムール川(図表は黒竜江)の河口と思っていた。
実際に間宮海峡の塩分濃度は低く、流氷が出来るのもその影響。

日本方面への南下政策が失敗したロシアは、その後カリフォルニアに関心を示した。
したがって、ロシア船の来航はとりあえず収まった。
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2014年4月16日
ウドンと韓国と

韓国の友人が韓国のヤマダヤという饂飩店で饂飩を食べたときの写真。
よく見ると、いろいろ「違和感」が。韓国の文化に合わせて微妙な変形がおきている。
 
ウドンは韓国でも食べられている。韓国語でも우동(ウドン)という。
関西風の味で韓国食に飽きたときは本当に助かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ところで、一方の文化が他方に入るとき、他方に受け入れられるように変化する。
意識的に変える場合もあるが、意識せずとも
自分の文化に合わせて何かしらが変わるものである。
この写真はそのことを語っている
 
大久保などで食べられる、日本の韓国料理も同じだろう。
…キムチが別料金って、韓国での韓国食に慣れた感覚では信じられないことである…。
 
ところで、この微妙な「違和感」が日韓の色々な軋轢の元凶ではなかろうか。
多分、ドイツでドイツ人が日本食をお店で出してきた場合、
それが、日本の感覚ではおかしなことであっても、
「それで?、ドイツだからね」で終わるように思う。
 
テレビで「とんでも日本食」を紹介しているが、「とんでも」を楽しんでいる。
「どうしてこうなっちゃたの?」「ありえへん」と楽しんでいるのだ。
楽しめると言うことは、つまり別物と考えているということだろう、
 
だが、、韓国は人の姿も、街の様子も、文化的にも
あまりにもよく似ているから、かえって微妙な違いが気になる。
そこを面白く感じるか、不愉快に感じるか。
 
つねに社会の中に両方の層があって、
そのときの社会情勢に応じてどっちが優勢に出てくるかということなのだと思う。
 
現在の状況は、
これまでの韓流が凄ごすきたから、反動も大きく出ているのだろうと思う。
日本側の事情の一つとしては…。

Posted by hajimet at 10:50 | Comments (0)


日本史授業20140414(いわゆる鎖国体制)

1.いわゆる「鎖国」:キリシタンを抑えることと幕府による貿易統制策として
 
 貿易港を平戸から長崎に絞り、出島に絞っていく。
  1616 貿易港を平戸、長崎に(中国船以外) 
  1624 スペイン船の来航禁止。
  1633 奉書船以外の日本人の渡航禁止(35年日本人の海外渡航、帰国禁止)。
  (1637 島原の乱。〔島原側は壊滅状態となり、小豆島から人を移す=島原素麺〕) 
  1639 ポルトガル船来航禁止
  1641 オランダ人を出島に移す。
 
平戸は東シナ海からのルートで最初に現れるところ、
長崎は湾奥が深く、天然の良港。そこを埋め立てて出島を作る(現在復元)。
イギリスは拠点がゴアだったため、遠すぎて来なくなった。結果的にオランダが残る。
結果的に「いわゆる鎖国」となった(「鎖国」はケンペル『日本誌』の翻訳(1801)で初出)。
 
2. 外国への窓口
(1)長崎、
a)オランダ:出島オランダ商館長はオランダ風説書を幕府に提出。漂流民も多く、幕府は海外事情をよく知っていた。
 
b)明清(殷周秦漢…、もしもし亀よで覚えられる。王系が変わると国号も変わる)。
 最初は日本人と混住していたが、のちに唐人屋敷に移される
 (今も道教寺院がある、おくんち、チャンポン)
 
(2)対馬(宗氏)。地形の関係から農業に向かない(3日間走ったが、山道とイカ釣り舟ばかり)。
九州からは200キロ近くあるが、朝鮮からは60キロほど。
直視できるし(釜山の花火大会は対馬北端で見学できる)、韓国の携帯使える。
 
それだけ近いから朝鮮から米を輸入した。
対馬は南北は100キロ、東西は数キロの幅で最も狭いところで50m)。
豊臣秀吉の朝鮮侵攻で関係が耐えていたが、
己酉条約で釜山に和館〔韓国側は倭館〕を作ることで交易再開。
(十干十二支について説明(だから甲子園))。
 
朝鮮からは将軍の交代のときに通信使(信=よしみ〔≒好〕)が来た。
オランダ、中国と異なり国交関係。
 
 薩摩:琉球を服属させて交易。
ただし、中国との関係などから、琉球王国(尚氏)を残し両属させる。
当時、日本以外の東アジアの国々は中国皇帝のお墨付きがないと支配できなかった。
琉球は中国との間接貿易もできるし、
地理的関係から中継貿易の国(その点では米軍基地がある現在と国際条件は同じ)。
琉球からは謝恩使、慶賀使が来るので国交関係(琉球成立の歴史も触れる)。
 
松前藩:アイヌとの交易。海獣など。シベリア方面を通じて明清とも交易できる。

Posted by hajimet at 09:50 | Comments (0)


日本史授業20140411(幕藩体制と江戸初期の外交)

開国前史
 
1. 幕藩体制
 まず、明治以降と江戸時代を比べる(本来はペリー来航から。その前提をするために)。
明治以降は中央集権
  西暦と元号の変換の仕方
    67+明治=西暦(ムリナ明治)
    11+大正=西暦(イイ大正)
    25+昭和=西暦(ニゴッタ昭和)
    88+平成=西暦。
 
江戸時代は幕藩体制(今は中央集権だから、大阪都構想のような分権化が主張される)。
幕府と大名は地方分権の関係で、政治、財政は藩ごと。
 
だから地域ごとの文化が大きく異なるし(薩摩の例を話す)、
名物も豊富(韓国に行って日本の感覚で名物を探そうとするとがっかりする〔それなりにはあるのですよ、でもねっという話〕)。
 
2. 外交。
ポルトガル船の来航、ザビエルの来日
 ルネサンス、大航海時代、宗教改革(反宗教改革)が原因で日本にもポルトガル船やザビエルが来る(上智大学、切支丹大名、島原、天草のキリシタン墓)。
 
江戸幕府初期はスペイン、ポルトガル、オランダ(八重洲)、イギリス(按針塚)などと
積極的に交易をし、東南アジアに日本町を作る。
 
しかし、西、葡が宣教師を前面に立てて植民地化をするという流れを認識したため(南アメリカ)、カトリックを制限しようとする。それとともに貿易港を平戸と長崎に絞る(平戸。松浦藩の豊かだったことを話す)。

Posted by hajimet at 09:41 | Comments (0)


倫理授業20140415(人間とは)

今日は倫理。2クラスは「自己紹介」。もう1クラスが授業。
 
ものごとを考える前提としての「人間とは」。
 
1.導入
まず生徒10人くらいに「他の動物との違いは」を聞いて見る。
「ことば、もじ、記録を伝えられる、感情、食べる目的以外で他の生物を殺す…」。
これらの答えを受け止めながら反論していく:「ひっくり返し=視点の転換」の導入になる。
 
しかし、肝腎なものが出てこない。資料集で「スフィンクスの謎」を読ませる。
そして直立二足歩行へ。
 
2.言語
 直立する結果脳が発達した。一方手を使うことが脳の発達に資する。
また、火を使った食べ物を食べることでアゴが退化したが(自分たちの歯の数を数えさせる)、
一方で脳が発達した(衝撃が少ないため)。その中で言語中枢が発達する。
 
親の言葉を真似て、3才くらいに突然文法的に正確なことがしゃべれるようになる。
しかし、臨界期がある。臨界期以前に複数の言語を学ぶことも出来るが、
簡単に母語とする言葉が変わってしまう(母国語ではない)。
 
臨界期以前に学び自分のものになった言葉が母語。
この臨界期は9才とされる(アマラ、カマラの話)。
ここで母語が確立するから、その後勉強を始めた英語は苦労している。
でも、一方で母語が確立するために抽象的に思考するようになり、
論理的に考えられる様になる(聾者で問題になる「9才の壁」の話をする。
 
言語中枢があるが、本能で話しているのではなく、
生後獲得した言語で人びとはものごとを考える(生理的早産)。
 
2.集団生活
人間は集団生活する。一人だけでは生きていけない。
攻撃されやすい体つき(正面は複雑。後ろは単純。
だから、正面から竹刀を振り上げるのはタイミングが必要だが、
後ろからは簡単にたたける(勿論、反則))。
 
孤独に弱い。海上で救援を待っていた人が発見されなかった話など。
低温にも弱い。28度以下に体温が下がる状態だと死亡すると言われている。
 
このように弱い存在だから、共同生活する必要がある。
共同生活をすれば規範が生ずる
(小学校の時のように、机を二つ並べていて、
片方の子が隣の子にちょっかいをだすとどう言うことが起こるか
(実例:政経でも現社でもおなじことを話す)。
 
規範は作るだけでは駄目で、それに対する制裁が伴う。
そのような規範に、道徳(倫理)、慣習、法律などがある(次回に続く)。
 

Posted by hajimet at 09:32 | Comments (0)