ウズベキスタンの写真集と旅行記
2003年7月18日より25日までの8日間、シルクロードと民族興亡の歴史に彩られた
中央アジアのウズベキスタンを旅行しました。その時の写真集と旅行記のページです。
ウズベキスタンへの経路図
ウズベキスタンの国旗
2003年7月18日より25日までの8日間、中央アジアのウズベキスタンを訪問した。この国を旅行先に選んだ理由はその雄大な歴史に興味を持ったからである。
アジア大陸の胴体の真中の内陸部は砂漠だらけである。大きな砂漠としては、東からゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、キジル・クム、カラ・クムなどがある。訪問したサマルカンド、ブハラ、ヒヴァはキジル・クム(赤い砂漠)と呼ばれる砂漠地帯にあるオアシス都市であり、ウズベキスタンはアフガニスタンの上にある。
アレキサンダー大王の東征(紀元前4世紀)によりギリシャからタシュケント(ウズベキスタンの首都)辺りまで交易路が開かれ、さらに漢の武帝(紀元前2世紀)の時代に長安からサマルカンド辺りまで交易路が開かれた。これによりローマから長安まで複数本のいわゆるシルクロードが出来上がった。さらにこれらシルクロードを経て日本に西域の文化、宗教が伝来した。奈良正倉院の文物や東大寺のお水取りの行事は、遠くヘレニズム文化やゾロアスター教(拝火教)の影響を受けていると言う。
そしてオアシスの中でも代表的な都市は、ローマや長安に匹敵する繁栄を築きあげた。その一つが今回訪問したサマルカンド、ブハラ、ヒヴァなどである。
日本の歴史は時代が変わっても同一民族内での政権交代と見做すことも出来るが、西域は異民族同士の争覇であり民族の移動の歴史であり、その民族が持った宗教・文化の移動の歴史である。主なものだけでもアレキサンダーの東征、アラブの侵入、モンゴルの侵入などがあり、その度に西域は全く異なったものになっている。歴史が変わるたびに10万人、100万人の単位で殺戮が行われている。
例えばサマルカンドは何度も破壊され復興し、その結果アフラシャブの丘では11層の異なった文化が発掘されると言う。これほど繁栄したオアシス都市も15〜16世紀の大航海時代を経ると東西の交易は、困難を伴う砂漠輸送から海上輸送へと主流が移り、徐々に栄光の座を譲る運命となる。
私が中央アジアの歴史や砂漠の文化に興味を持ったのは30年以上前である。井上靖の小説「敦煌」・「蒼き狼」やそれらに触発されて文献を読むうちに、やたらと国名や民族名が多くて頭が混乱するので私なりに整理をしようと思い、各時代毎に白地図に国や民族名を記入する作業を始めた。
しかしこれは数枚の作業で終ってしまった。国や民族の変遷は余りにも膨大かつ複雑で、各方面の歴史の専門家がプロジェクトでも組まないと完成出来るような代物でないことがだんだん分かってきたからである。
その後NHK特集「シルクロード」のシリーズが、喜多郎の音楽に乗せて1980年から放映され、ますます中央アジアの砂漠地帯に一度は行きたいとの願望が募っていった。
長年の願望が今回やっとかない、その旅行の印象は期待以上のものであった。
続く
2003年7月25日 記
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