新羅神の来た道
(左:湾口香春岳(手前から一之岳、二之岳、三之岳) 一之岳頂上 セメント採掘所

古代、豊前、豊後の地域は新羅系渡来人の多い所であった。豊前風土記には香春で「新羅神」を祀ると書かれていたり、この地域に関する当時の戸籍には渡来系の人物の名前が多く現れる。

北九州は位置的には朝鮮半島の対岸にあたるが、対馬経由にせよ、沖の島経由にせよ、たやすく渡ってこられる位置にある。胸形氏の地盤とした地域では、弥生時代以来の朝鮮半島渡来物がでてくる。

香春は石灰岩のビュート地形で、石灰岩が陥入してきたマグマ(花崗岩)と接触した関係で、スカルンと呼ばれる地質が出来た。スカルンには鉱物が沈殿する。そのために、鉱山が多い。特に、銅が産出するため、金属採掘技術を持った人が集まった。それが新羅系渡来人、秦氏集団であるとされる。彼らは香春岳に自分たちの神を祭った。それが「新羅神」である。すでに、新羅で仏教が広がり、仏教と道教、シャーマニズムの融合した独特の仏教となっていた。花郎という美少年集団を選抜し、仏教伝来以前から信仰の山であった慶州南山を逍遙させて修行させる。花郎となったものは弥勒の化身と考えられた。このような仏教が持ち込まれたものと考えられる。

527年、磐井の乱がおこる。百済と結びつこうとしたヤマト政権に対して、新羅とつながった磐井が反乱したというものであった。これに磐井が負けると、北九州の勢力が変わった。一つは、この地域に多くの屯倉が置かれるようになったことである。香春一体も磐井の影響力が強かった地域とされるが、この地域にもヤマト政権の屯倉が設置された。535年時点で、豊のクニの屯倉の数は5つであった。他のクニの屯倉が1つないし2つであるのに対して、とても多い。他に多く置かれたのは、同じようにヤマト政権に反発した吉備のクニだけであった。比定のしかたにもよるが、豊のクニの屯倉のうち、3屯倉が田川郡にある。このような屯倉の管理を通じて、新羅人集団が豊前、豊後地域に広がっていったとも考えられている。

新羅人の信仰のうち、山岳信仰、山岳修行的な部分は英彦山(日子山)に入る。ここで山岳修行と弥勒信仰の融合した英彦山信仰ができあがる。これは後に修験道に変化していく。また、平野部に広がっていた集団は、古代寺院を多く建立した。これらの寺院跡からは、新羅系の瓦が出てくる。

香春近辺から中津など豊前、豊後に広がっていった渡来人の中に辛島氏がいる。彼らは宇佐方面に勢力を広げていった。宇佐は大和からの瀬戸内海ルートの上陸点で、古代大宰府へ抜ける官道は仲哀峠を越えて香春に入っていた。もともと宇佐には宇佐氏が勢力を広げていたが、磐井の乱以降、一時衰退した。そこに辛島氏と大和から勢力を伸ばした、三輪山を信仰する大神氏が勢力を広げた。元々の宇佐氏の信仰と大神氏、辛島氏の信仰が合わさって成立したものが八幡信仰である。そして英彦山で修行した宇佐氏系の法蓮が神宮寺である弥勒寺の住持となる。宇佐八幡は神仏習合神宮の第一号であった。

宇佐信仰は国東半島に入り、六郷満山文化となる。宇佐八幡の影響を受けているのだが、同時にこの地域にある寺院の多くが弥勒仏を祀っていると言う所にも特徴がある。元の新羅神信仰がそのまま入っているのではなく、日本化しているのだが、新羅仏教の雰囲気も感じられる地域である。新羅同様、磨崖仏が多い。韓国や日本で見られる磨崖仏は山東半島起源とされ、百済瑞山磨崖仏のある泰安半島に入る。新羅が韓国を統一するころから急速に発展するものである。なお、国東半島の先端、周防灘に浮かぶ姫島では、姫語曽神を祀る姫語曽神社がある。

香春修験の山 宇佐国東半島
香春岳 英彦山(1) 風土記の丘 元宮磨崖仏
香春神社 英彦山(2) 大元神社 富貴寺
現人神社 高宮神社(豊前坊) 宇佐神宮 真木大堂
古宮八幡神社 求菩提山 弥勒寺跡 熊野社磨崖仏
阿曽隈社 宇佐八幡関係 大尾山 鍋屋磨崖仏
清祀殿跡 薦神社 虚空蔵寺跡 横穴墓
神間歩 鷹居社 宇佐の影響の強い地域 阿宇田の画像石
大岩弘法院 小山田社
大分(おおぶ)八幡神社 姫島
最澄関連寺院(神宮院、天台寺廃寺) 瀬社 山野の石仏群 姫語曽神社岐
 
英彦山参道 駅間川(左森が鷹居社) 宇佐神宮、菱形の池
                  
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