関山神社
関山神社(化政期) 国常立尊 仏足石 妙高山(上信道より)

妙高山の麓、妙高市にある。北国街道を北上すると、関川の深い渓谷を抱く山岳地帯から、直江津方向に谷が開く地点にある。近くには江戸時代の関川の関所があり、いかにも県境、国境の場所である。弥生土器にしても、弥生前期から後期にかけて、関川以北は東海系(信濃箱清水式土器)から北陸系に変わるのに対して、関川まではつねに東海系の土器が出土している。すでに弥生時代から越と信濃の境界だったところと考えて良い。

関山神社一帯は1582年、本能寺の変の数日前に焼き払われ、社伝など創建当時の資料は一切残っていない。伝承によると、妙高山は関山和銅元(708)年、裸形上人によって開山され、関山に三社権現を勧請したという。ご神体は、国常立尊(地主権現、聖観世音菩薩)、伊弉冊尊(白山権現、十一面観世音菩薩)、素戔嗚尊(新羅明神、文殊菩薩)である。

妙高山は海抜2454m、船運の目印になる山である。このような山が山岳信仰の対象となる。日本固有の思想では、このような山は神聖なところとして扱われ、入山することはなかった。一方で、5,6世紀に渡来人が多く来ると、彼らは山を仏教の「須弥山」や、道教の「崑崙山」と考える思想を持っていた。渡来人の多くは仏教信者であったが、彼らにとって山には入ることは「仏の世界に入ること」を意味していた。山の位置づけは違うが、いずれも神聖なところとして、現地に住む倭人の信仰と素朴な形で習合したのだと考えられている(後に本格的な本地垂迹思想で理論化される)。渡来人、特に新羅では、新羅人本来の信仰(巨石信仰)と山岳仏教が融合して、盛んに信仰されていた。慶州南山吐含山などには多くの仏教寺院が作られていた。現在でも、寺の多くは山の中にある

関山神社も熊野系信仰、白山信仰、弥勒信仰、観音信仰、竜神信仰などが習合している。開祖とされる裸形も熊野権現系の僧侶とされるが、明治初年の神仏分離まで、ここは「関川権現」であった。このうち白山信仰は鎌倉末〜南北朝期にかけて、熊野信仰に代わって流れこんだと考えられている。

ところで、白山信仰そのものは新羅系説が主張されているが、開祖の泰登も高句麗系渡来人とされている。このような渡来系信仰が関山に入ってきた。実際に渡来系の人々がここにいたと思わせるものは多い。まず、関山権現のご神体、国常立尊が7世紀後半の新羅仏(秘仏、写真は神社のパンフレットより)である。ご神体を収める箱には「新羅明神」と墨書されている。おそらく念持仏であっただろうと考えられている。

また、古代百済新羅に系譜を持つとされる亀石があり、さらに近くの上越市中郷区福崎の稲荷神社には猿石がある。いずれも鎌倉時代のものであるが、帰化人との関係が伺われるとされる。実際峠を越えた長野県は伽耶高句麗をはじめ、帰化系の文化の強い地域であるし、越後の新井も渡来系の地名が多く残されている。両者とも渡来系由来の牧の存在が認められているところでもある。関山はそのような信・越の文化の接点にあったのだろう。しかも信仰の対象の山の麓である。

神社境内には関山石仏群がある。平安から鎌倉にかけての作品で、登山道に沿って置かれていたものを集めたものである。「弥勒」とも「阿弥陀」ともいわれるが、作り方が独特である。「生け込み式」といわれ、地中に直接埋め込んだもので、地中から仏がわき出ているように見える。磨崖仏に系譜的に繋がるとされる。磨崖仏は6世紀に百済で作られはじめ、新羅で完成するものであるが、回りから見て飛び出したり、光背のように見える崖に薄く彫られるものである。地中から仏像が飛び出す点で同じである。だが、韓国は花崗岩中心で磨崖仏が彫りやすい一方で、日本では石が柔らかいところが多いため、修験者の霊場以外では余り見られない。関山も凝灰岩で磨崖仏を作ることは困難である。

いずれにせよ、直接の証拠はないが、渡来人系、特に新羅との関係が考えられる場所である。このルートは東山道も考えられるが、能登半島から船で直江津方面に上陸したことも考えられる。途中に親不知、子不知があることと、白山信仰が海上ルートで能生に上陸して、それが関山まで来ていることなども考慮に入れられるかもしれない。

ここには平安末〜鎌倉にかけて彫られたとする仏足石がある。これは、奈良薬師寺に次いで古いもので、日本で唯一仏足(中央)、舎利塔(左)、仏手華判が彫刻されているものである。





関山石仏群 関山1号石仏 亀石 猿石(旧中郷村)

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