新井の古代遺跡
住居跡(中央くぼみ。斐太遺跡) 内環濠(斐太遺跡) 関山付近より新井市街地方面を見る

妙高市新井の斐太遺跡は2世紀後半から3世紀の高地性防御集落である。弥生時代、日本に入ってきた稲作は、弥生後半になってようやく高田付近にも入ってきた。それまで高田平野は東海系土器の出る地域であったが、急速に北陸系の文化に変わった。これとともに、西暦3世紀前後に「倭国大乱」といわれる戦争も起こるようになった。斐太遺跡はそのときのもので、10万uの範囲に3つの居住区が設けられている。特に高地上のテラスに作られた矢代山B群は建物址が60近く発見され、重要な場所だったと考えられている。

ところで、多くの遺跡は住居跡が完全に土中に埋没するが、ここは浅い凹みとなって、住居跡が確認出来る。そのような住居跡が約130確認することが出来る。住居跡の回りは住居を守る環濠(一部二重、延長900m)も残されている。なお、この山の頂上部分には上杉景虎が自害した鮫ヶ尾城址がある。

斐太のすぐ上は信州(東海系文化)との境界である関山であるが、戦乱は信州と北陸系の文化の対立ではなく、北陸系同士の対立であったようだ。しかし、戦乱はそれほど長くは続かなかった。ここが使われたのは、わずか20年程度のことだっったようだからだ。だが、この争乱はかなり激しかったようで、信州側からこの時期急に北陸系の土器が出るようにな る。

斐太遺跡を挟むように観音平・天神堂古墳群がある。斐太遺跡とよく似た地形である丘陵の斜面の17万uの地域に分布する新潟県最大の古墳群である。観音平古墳群には今のところ53基(前方後円墳2)、天神堂古墳群は120基近い古墳が確認されている。観音平古墳群の最上部の1号墳、4号墳は前方後円墳で、1号墳は4世紀まで遡る可能性が指摘されている。古墳群全体の発掘が十分でないが、3世紀末から5世紀半ばまで作られ続けていたと考えられ、さらに、弥生時代の墳丘墓から続く可能性まで指摘されている。

越後地域の古墳は4世紀後半から5世紀にかけて、蒲原地方でも古志地方でも作られる。しかし、5世紀後半はなぜか蒲原の古墳は減り、変わって頸城(新井中心)、魚沼で盛んに古墳が作られるようになる。土師器、須恵器とも東海系で東山道、関川経由の文化であったようだ。大和政権は、伽耶滅亡(562)ころから、本格的に北方経営をはじめたようだ。その拠点が頸城(久比岐)であった。そのようなことも背景にあるのであろう。

さらに大化の改新(645)直後の647年淳足の柵が設けられ、蝦夷への食糧供給の観点から高田平野、南魚沼を重点的に開拓するようになった。越後の国府 も最初は沼垂城であったが、8世紀初旬に頸城へ移った。国府の位置については、数説あるが、そのうちの一つが新井説である(有力説は直江津今池遺跡説)。

かつて新井周辺の郷で、国府のあった原木郷だけ場所が比定されていないが、斐太の可能性が高いこと。牧があったことを示す百々地名があること。牧の開発に関係する氏族の高句麗系の栗原氏がいたことを示す栗原という地名があり、さらに国賀という地名もある からである。郡衙説もあるが、いずれにせよ大和政権にとって重要な土地で、しかも渡来系に関わる痕跡が残っているといえる。

新井に近いの直江津の居多神社は三韓征伐に関連した伝説が残されていて、海の繋がりが考えられる。越と出雲の繋がりは古代より強く、西頸城の神社の祭神は出雲系の神が多く祭られている。また、能登半島の反対側は高句麗、渤海使節が到着するところであった。このような海上交通ルートと渡来人、帰化人の関係も検討していく必要があろう。その検討が出来る可能性のある場所の一つが高田平野かもしれない。

観音平古墳群 観音平1号墳(前方後円墳) 1号墳よりの眺望

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