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2012年6月12日
中国東北部史跡紀行8日目(6月3日)

最終日。雨。
瀋陽から集安にかけて、気圧の谷と寒気の影響があったが、
これまで本格的な雨には遭遇しなかった。
 
朝、ホテルの目の前にある駅前を散策。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くの看板を見ていると、キムチの看板が。辣白菜
…「ぴりっと辛い白菜」…確かにそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それから、朝食。朝鮮風のものが多いが、飾り唐辛子が、
四川料理などに使われる大ぶりの乾燥唐辛子で、かみ切れない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7時半、宿を出発して、城山子山城へ行く。
高句麗の城址だが、尾根に挟み込まれた平地があるという地形で、
山城には最適。韓国的に言えば、明堂にある山城である。山の下には古墳も見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ただし、2つの理由でたどり着けなかった。
一つは道が悪路でありぬかるんでいたばかりか、
高速鉄道の工事で突然寸断されたこと。
 
もう一つは迂回路が、大型バスが入れなかったこと。
遺跡まで歩いて行くと、飛行機に間に合わない恐れがある。
そこで、そばまで行くことを断念して、市内見学へ。
途中漢族の集落を通る。実は、漢族の集落も多い。
入母屋の朝鮮族の集落と違い、切り妻で作られ、煙突も壁に埋め込まれる。
ペチカのような暖炉が使われるのだろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漢族の集落も多いのだが、朝鮮族と混ざり合っているのは目にできなかった。
同じ集落の中でも、漢族は漢族で、朝鮮族は朝鮮族で固まっているように見えた。
 
市内に入る。延吉は布尓哈通河を中心に栄えている都市だが、
この河の名前は「柳のきれいな川」という満州語から来ている。
哈爾浜も含めて、満州語由来の地名が多く、あらためて満州語、満州族のことを
知らないと、この地域のことを正確には理解出来ないと思った。
 
町中は朝鮮語だらけ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、ロシア人が多いことを窺わせる標識も。ここはお土産屋の前。
途中から朝鮮語の分かる人が来たが、それまでは漢族だけ。
チマチョゴリを着ていても漢族。英語で言えと言われたが、
I want to buy a T-shirt がなかなか出てこない…。
中国語で私は「漢族」だから「漢語」でといわれてもね…(このくらいは分かる)
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、エリート教育も漢朝両語教育。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このようなものを眺めながら、空港へ。
搭乗手続きは、荷物検査を受けてから、中に入って手続きをする。
何となく、(普通の空港なら)保安検査の場所が搭乗手続きの場所なのである。
 
保安検査の時、何故か「トゥイ」と言われた。
最初分からなかったのだが、朝鮮語だった(日本のパスポートを見せたのに)。
そして売店も、当然のように朝鮮語で会話…。
 
飛行機(KAL)は定刻の12時5分(日本時間13時5分)に扉が閉まった。
 
隣の席のハルモニはかなり中国語訛りになっている朝鮮語で話しかけてきた。
 
しかし、いつまでたっても動かない。管制の指示と言うことだった。
飛行機は一旦大連上空に出て、黄海から仁川に回り込むルートをトルのだが、
黄海上のルートは30分に1本しか飛行機を飛ばせないことになっているそうだ。
 
その間隔の谷間に落ち込んだのだろう。
1時間10分後、飛行機は50mほど動いた。
そこで、またストップ。結局2時間近く遅れて出発した。
 
一方で、こちらは大慌て。
15時30分に仁川に降りて、韓国に入国して金浦空港に移動して、
19時発の飛行機に乗ることになっている。
 
機内で、大丈夫かと聞くと「多分大丈夫でしょう(これ、実は危険な表現)」、
「30分前に着けば乗れますよ…(記憶では45分前まで)」。
 
やはり飛行機はよく揺れる。ついには乗務員も着席。
…機内食は、ウナギの蒲焼き。
 
17時15分に仁川到着。
大急ぎで入国手続きをするが、指紋と顔写真撮影で結構時間がかかる。
17時30分入国。
 
今度は荷物が出てこない…。優先タグがついているのに…。
そして、税関を通過して、1万円をウォンに両替。
 
機内の反応から、金浦に行こうと思ったが、
念のため出口にあるKALのインフォメーションに(複雑な話は日本語で)
eチケットを見せながら事情を話したら、顔色が変わった。
「国際線で30分前はない」「延辺からの飛行機が遅れた」と事務に問い合わせ。
結局「仁川−羽田」便に振り替えてもらった。
 
そして言われたカウンターに行ったら、そこは成田線の搭乗手続カウンター。
言われたところと雰囲気が違う。
案内の人から、成田行きは満席だと言われつつ(英語しかしゃべれない人だった)、
日本語の分かる人に来てもらって(もう韓国語で話すのは限界…疲労優先…
2時間しか寝ていない日の夕方なのだ…日本語の分かる人でなければ
ダメだと(韓国語で)強く主張して)、説明。
 
搭乗手続きの係のその人と、一緒にオペレーターの所に行って、
振り替えの確認して、チケット発行の所に並んだが、
なんと、再発行の必要は無く、搭乗手続きをすれば自動的に振り替えになる事を告げられ、
結局、その係の人の受付で手続きをしてOK。
 
そして、そのまま出国へ。審査が終わったのは18時25分。
たった55分の入国で、仁川空港の1階から3階まで行っただけ。
ウォンは円に戻さず、次回のためにとっておく。
 
中で名古屋のメンバーと再会し、お別れ。
そして、食堂で(普段は帰国の時に韓国食は絶対に食べないのだが)、
ユッケジャンを食べる。慣れた味で美味しかった。
 
朝鮮族の料理も、油浸しの漢族料理よりは美味しいのだが、
やはりどこか違う。ソウルで食べて、ホッとしたと共に疲れた噴き出してきた。
帰りのKALの機内食は、プルコギご飯。4回乗ったKALのなかで、唯一の韓国食。
 
家到着は12時だった。
さすがに強行軍で、そのあと1週間、どこか疲れの残りを感じた。
今回は時差の違いは意識しなかった。前回のときは体の時間を
中国時間にしたために、その後1週間近く変だったのだが、
今回は、早起きが多かったので、基本的に日本時間を意識するようにしていたのだ。
そのため、時差はそれほど問題なかった。
 
さて、今回は古代と共に、ロシアと日本を意識しつつ旅行するつもりだった。
しかし、随所で、満族の影を感じさせる旅行となった。
中国東北を語るときに、満族は抜きに語れないと感じたのである。
これから、少し勉強したいと思う。
 
それとともに、この地域の、歴史的包容力の大きさも感じた。ともかく面白い地域である。
特に、延辺はすこしこだわりたいと思う。
自分の関心のある人物も、この地で活躍しているのだから…。
 
それとともに、一度北京と上海を見なければ…。2回も東北に行っているのに、
首都を見ないのも…。

Posted by hajimet at 23:08 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行7日目(6月2日)

朝、ホテルの周りを散歩。
ホテルのエレベーターのボタンは、
どこもステンレスにそのまま数字が浮き彫りにされて見にくい。
 
ついでだが、大連、瀋陽のホテルはエレベーターが来るときに鐘が鳴る。
下りは2回鳴るのだが、ピッチも感覚も緊急地震速報のベル鐘そのもので、
無意識に緊張していることが分かる。
 
寝室から外を眺めると、昨年完成した鉄道が走っていた。旧満州国皇宮まで行くそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午前中はその旧満州国皇宮を見学。中国では偽満皇宮と呼んでいる。
宮殿の生活様式を復元している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飛行機の時間の関係で11時頃昼食に。豆腐料理が美味しかった。
また、卵焼きに掛けられているのは、トマトソース。変わった味だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飛行機は50分で延吉空港に。途中は気流の関係でかなり揺れた。
空港は野原の中にある。しかし、ここは朝鮮族自治州。
表示が一気に朝鮮語に変わった。個人的にはとてもホッとした。
(延辺の朝鮮族を扱った韓国語の分かる日本人の本が、同じような事を書いていた)
 
ついでにガイドさんの日本語が、中国人の日本語から、韓国人と同じような表現方法を
する日本語に変わった。これもホッとする。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
標識も朝鮮語。韓国とは表記が違うのも面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
早速、和龍にある西古城に向かう。
途中、朝鮮族の集落を多く通過する。朝鮮族の家は入母屋造り。
煙突が建物の外にある。オンドルを使うためである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、丘々の上には塔が立っている。抗日部隊の記念碑である。
延吉は朝鮮と隣接しているために、朝鮮から人々が流れ込んだのだが、
それゆえ、抗日闘争の拠点でもあった。日本側も監視をしていたところである。
 
延吉からロシアも近いため、抗日活動をしている人の一部はウラジオストークで
活動した。ウラジオにいた人々はスターリン時代カザフスタンなどに移住させられ、
ロシアのコリョスキーとなっている。韓国の人は、抗日運動の聖地の一つとして、
ここを訪ねてくる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バスは龍井を通過して小一時間で和龍の西古城に到着。
ただし、非公開なので、「車窓」見学となった。渤海時代の中京顕徳府のあとである。
整備中のため、公開されるのが楽しみである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周囲は田植えが終わっているが、延吉は米の美味しいところで有名である。
元来、朝鮮族の米は美味しいとされてきたが、特に美味しく、溥儀に献上していたそうである。
今も、人民大会堂の公式行事の時にはここの米が使われると聞いた。
 
続いて龍井中学へ行く。詩人尹東柱の出た大成中学のあったところだ。
 
死ぬ日まで 天を仰ぎ
一点の恥も ないことを…で始まることで知られる、

「序詩」−空と風と星と詩−の詩碑が建てられている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
復元された中学校校舎の中は資料館になっていて、
延辺の朝鮮族の歴史が分かるようになっている(ただし、中国の観点から)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、間島日本領事館の建物を見る。間島は延辺のことを
戦前、朝鮮や日本が使っていた別名。ここに置かれた名目は、
日本国民である朝鮮族の保護であった。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は北朝鮮の店で食事。韓国風(朝鮮風でなく)と中国風の混ざった
不思議な料理であった。踊りもあったが、料理以外は撮影禁止であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一度ホテルに戻ってから、マッサージに行く。
漢族が担当する。しかし、「アパヨ」「ケンチャナヨ」と聞かれた。
「韓国語が出来るの?」と聞いたら、「ちょっとだけ」と答えていた。
(丁寧な担当者だった。瀋陽では気がつかれないで終わったが、
ここの担当者は足の怪我の跡をちゃんと気がついて、マッサージしていた)。
 
最後の夜。なぜか3時まで眠れなかった。翌日は5時起床…(モーニングコールは6時)。
 

Posted by hajimet at 22:23 | Comments (0)


中国東北史跡紀行6日目(6月1日)

朝、早めに起きてホテル周辺を散策。
近くの学校では運動会を行っていた。
この日は国際児童デーとのことで、中国ではこどもの日である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
普段からもそうだと聞いているが、周囲には露店が出ていて、
学校の入口には食べ物屋が出ていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そのすぐ前が朝市。朝鮮族か漢族かは見ると直ぐ分かる。
トラジを売っている朝鮮族。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これはどっちだろう。赤唐辛子はなく、青唐辛子しか売っていなかったが、
大ぶりなものしか売っていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮族のチジミ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漢族の油条、隣は饅頭屋

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮族の漬物屋。
これまで中国で食べるキムチは色が薄く、発酵も弱いと思ったが、
これを見てはっきりと分かった。
朝鮮族の味付けなのだ。朝鮮族の多くは北朝鮮の地域から入ってきている。
そのため、北式の味なのだ。ソウルにいた平壌出身の故人が、
ソウルのキムチは赤くて辛くて食べられないと行っていたことを思い出した。
他に鮒を売っているところもあって、内陸にいることを感じさせる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7時過ぎに出発。関馬山城を見ながら、通化へ。
通化の航空隊の跡を見ながら(今も人民解放軍がいる)、長春へ。合計6時間。
有料一般道を北上し、梅河江から高速に入る。
バスは盛んに警笛をならす。
 
以前、道ばたで携帯電話で話をしたとき通過した車から盛んに警笛を鳴らされ、
不思議に思ったが、今回見ていると「車が通過するから、余計なコトするな」という
意味だと言うことが分かった。
 
その手前、熱河駅前で休憩。駅前有料トイレは…別にきれいではなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梅花江から乗った高速のトイレは、新しくきれいなものだった。
書かれていることはどこも一緒。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長春でようやく昼食。時間はなんと2時半。文革をイメージした店だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中には、当時の風刺画や、新聞が貼られている。これはこれで貴重な資料。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後吉林省博物館へ。漢景帝の陵から出土したものの展示を行っていた。
宦官の俑があるところが珍しいとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後市内観光。満鉄附属地に作られた日本の遺構を中心に見る。
長春以南はポーツマス条約で日本の勢力圏となったところだ。
東清鉄道もここで満鉄に乗り換えになる。
ハルビンがロシアのショーウィンドウになったのに対して、
長春は日本側のショーウィンドウであった。
一方で文化はロシア側から流れ、旧大和ホテルのようにアールヌーヴォーが流行った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、関東軍司令部のように帝冠式の建物もある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに国務院のような興亜式+満州様式の建物も見られる(官庁街は興亜式)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中でお土産のウーロン茶の店に行き、見学。それか食事。
韓国料理。集安では冷麺は夏場は衛生面の問題があって出せないと言われたが、
ここではメインに出てきた。そして何の問題も無かった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテルは日中友好会館。ガイドブックには日本語が通じることになっているが、
通じない。今回日本語が通じたのは瀋陽だけであった。ほとんどの所が通じる筈なのに。
 
長春のガイド氏の話によると、賃金が安く、なかなかホテルに留まらないとのことだった。
 
 
 

Posted by hajimet at 21:24 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行 5日目(5月31日)

東北紀行5日目。そろそろ中華に飽きつつ、朝食。饅頭が中心だが、
くずきりのようなものや、黄色いカボチャ(美味しくない)もあった。
 
通化を出発して、集安に。1時間ほど走ったところで休憩。
6年前もきれいなトイレがあると言うことで休憩した場所だった。
腰をかがめて頭が隠れるくらい。立ったままズボンを下ろせないくらい低い扉である。
ちなみに、紙はホテルの公衆トイレのようなところでも備えていない。
そのため、ホテルの部屋からトイレットペーパーを持ってきて、鞄の中に忍ばせていた。
 
売店のおばさんは韓国語で話しかけてくる。
といっても、こちらの韓国語が通じるわけではない。
高句麗は韓国史にとっても重要な国なので、韓国人訪問客が非常に多いのだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに1時間走って集安に。峠から下る道は積石塚が左右の林の中に点在する。
ここは、桓仁の次に高句麗の都となった町である。
まずは、丸都山城。入口は高句麗式の甕城である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから200mほど山を登り、見張台(天将台)を経て王宮跡に。
途中農家があり、耕作している。
世界遺産になるときに、遺跡監視も予てあえて撤去しなかったとのことだ。
 
王宮跡には八角形基壇の建物が二つ並ぶ。
高句麗は早くから仏教を取り入れているから、寺院の基壇の可能性もあるが、
一方で、八角形信仰があって、そこに仏教が融合した可能性もある。
ここから、見張り台、門、平城のあった集安市内、北朝鮮の山々が一望できる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
丸都山城の下は貴族墓古墳群。桓仁と同じようなただ石を積んだだけの積石塚から、
隅石を作ったもの、階段状のものなど、積石塚の発展史を追うことが出来る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これを見て昼食。「故郷村」という朝鮮族の店(でも、韓国語は通じない)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トラジの和え物、豆腐チゲ、刻み青唐辛子、ニンニク、キムチ…。
特にサンチュをみてホッとした。味噌は日本の味噌に近い。
ところで、漢族の料理はニンニクを丸ごと料理の中に入れているのに対して、
朝鮮族の料理は(韓国のものも)ニンニクを丸ごと調理しているものは見なかった。
 
食後、広開土王(好太王)碑を見学。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覆屋の中には入れるが写真撮影は禁止。そのため、外から撮ってみた。
「倭が渡海して臣民となす」の部分、何とか撮れた(画像処理済み)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けての大王塚は雷が鳴ったのパス(前回も行っているので)。
王陵と碑、そして守る人の集落が見つかっているので、これが広開土王陵だというのが、
説明者の九州国立博物館館長の西谷先生の説。
 
そして、将軍塚へ。日本の通説は広開土王陵。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それから特別企画として、北朝鮮国境ツアー。
集安から北朝鮮側の満浦(集安対岸)へと鉄道が通っている。
だが、本来はそばまで行けるそうだが、国境が緊張しているため、近づけなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市内に戻り、国内城見学。城内で発見された建物跡などを眺める。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城壁は丸都山城の所から流れ下る通溝河に沿っている。
それが鴨緑江に流れ込むところは筏登島という北朝鮮側の川中島が
すぐ目の前にある。川幅は100mない。集安側は6年前に比べて都市開発が
行われていたが、北朝鮮側も村が出来ていて、人々が動き回っていた。
今回は北朝鮮側のAM放送も聞こえたし(以前は聞こえなかった)、
対岸の精錬所の煙も出続けていたので、多少は経済状態もよくなったように見えた。
(国境地帯という特殊性もあるのかもしれない)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は韓国料理。ちょっと味が違うが、焼き肉。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテルはホリデイイイン。ホンコン資本のホテルで、施設も良い。
ただ、PCの接続は大変だった。ITに繋ぐのにDNSを手動で設定しなければ行けないのだが、
その説明書が中国語の紙切れ一枚。係を呼んで、それを教えてもらうまで気がつかなかった。
洗面所には成人用品が…。通化でもあったが、子供も泊まるところにこれは…。
記念に写真だけ撮っておいた。

 
 

Posted by hajimet at 20:37 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行4日目(5月30日)

ひたすら移動と見学を繰り返す一日。
瀋陽から撫順に向かう。7時半に出発だが、
自分たちのバスが対向車線にUターンしている最中に、
内側からUターンをしようとして突っ込んできた車のため、30分路上に止まる。
(Uターン出来る余地は無く、携帯で話をしながら、無理矢理突っ込もうとした)
 
約1時間。撫順着。石炭の町で、なんとなく黒ずんだ市内を抜けると
高句麗新城。遠くには遼の時代の塔が見える(写真には写っていない)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山の周り全体に高句麗の土塁が巡っている。南門と北門の土塁は遺っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高句麗新城を見学した後、第3玄菟郡跡地を遠望してから、蘇子江に沿って上流へ。
新賓満族自治県に入る。ここは清(後金)の発祥地。
ヌルハチの親の陵(永陵)が世界遺産になっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
自治県であるので、民族の風習などを意識したものが多い。
役所の看板も満州文字。ただし、読める人は全中国で200人(シボ語は違うものだと言われた)。
満州族が残した本をこの200人で読んでいっても、200年かかる量だそうだ。
町中も満州風の建物が建つ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから10分ほど歩いたところに、第2玄菟郡城址がある。
土塁が巡っているが、それも含めてすべてトウモロコシ畑になっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
記録によると、漢によって置かれた玄菟郡の高句麗県のあった場所で、
高句麗県城もこの直ぐそばにあるとのこと。高句麗県は
高句麗国に押されて玄菟郡が撫順に移ったときに、一緒に移転したそうである。
食事は、満族(風)料理。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
辛いもの独特のものは避けてもらったというが、ソウギョ風の川魚にかかっているタレは
激辛。ピーマンの炒め物と思って食べたものは、巨大な青唐辛子だった。
焼く前の煎餅のようなお餅は美味しかった。
食堂の前は、ヌルハチの生まれたカトアラ城。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くには、後金の城址や、高句麗の城址が点在する。
周囲は田植えが行われ、山は韓国では見られない杉や檜林が広がる。
しっかり手が入っている立派な杉林であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そのような中、2時間バスに乗り、峠を越えて桓仁に入る。
高句麗の最初の都があったところだ。
まずは、初期高句麗の古墳、上古城子積石塚を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初期のものはただ石を積んだだけ。少し時代が下ると、
基礎だけ大きな石で方形に整えられる。
続いて平城。下古城子城址を見る。
現在集落の中になっていて、片隅の土塁が遺っているだけだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高句麗の城は平城と、戦争用の山城がペアーで作られる。
五女山がそれにあたるが、それに登らずに、五女山博物館を見学する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
以前は昇ったのだが、階段が急すぎる。上り口から頂上まで999段。
桓仁を離れ2時間ほどで通化の町に。
関東軍が終戦の時にここから日本へ飛行機で逃げようとした町だ。
夕食は中華。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本時代に導入されたワインが名物。かなり甘いものだ。
また、米の美味しいところで知られる。ジュンサイのスープが絶品だった。

 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 08:26 | Comments (0)


2012年6月11日
中国東北部史跡紀行 3日目(5月29日)

朝はホテルの30階でバイキング。
ホテルニューオータニと同じく、回転式展望台で食事なのだが、
「揺れる〜〜」。回転は止まっていた。食後表に出て大連駅を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
反対側には大連市電が。通勤客や夜行で来た人々で駅前は賑わっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市電だけでなく、トロリーバスも走っている(バス中から撮影。ブレブレ)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午前中はロシア人街、日本人街を見る。
大連は三国干渉後、ここを租借地にしたロシアが作った町。
大連も、元々は「ダリーニ」で「遠方」の意味。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東清鉄道に経営を任せていたが、その社宅も復元中である。
日本人街は中山広場(旧大和ホテル)、満鉄本社などをみた。
以前訪れたときは、旧満鉄のマンホールが残されていたが、
今は、何の変哲もない大連市のマンホールに。期待してたので残念。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1時過ぎに大連発北瀋陽行きの列車に乗らなければならないので。
11時には昼食だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セロリの炒め物チンゲン菜と茸の炒め物、キュウリのサラダ、太いモズク風のサラダ、
エビ出汁のスープ、ワカメスープ、キクラゲと青梗菜の炒め物が出た。
店の前にはサクランボ売りがいる。今がシーズンで、普蘭店に行く道で露店が出ていたし、
大黒山城の麓のサクランボ畑では、実が文字通りたわわに実っていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
列車に乗る。出発後3時間、按山停車した以外はノンストップ。
4時間で瀋陽北駅に。駅前のグロリアプラザに泊まるが、そこに行くまでが大変。
駅前が、高速鉄道の工事でガタガタ。以前来たときのイメージはない。
 
そしてホテルに行く三叉路は、信号はあっても無きがごとし。
渡っているときに、高速で車が右折してきた。
地元の人は、上手く対応するのだが、日本のイメージからするとカオス。
バスもガタガタ。後ろが壊れたまま走っているものもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜も中華。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ビールは「雪花」。トウモロコシの炒め物、ニンニクの芽の炒め物、
高野豆腐状のものの和え物などが美味しかったが、
特にキューリのスープが美味しかった。
漢族の地域では、キュウリを上手に使うと思った。
ウリ臭くなかったのだ。
 
夜は、瀋陽グロリアプラザ泊。

Posted by hajimet at 23:17 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行2日目(5月28日)

朝、窓の外は親に連れられた小学生が、ホテル前の学校に向かって歩いている。
皆、首には赤いスカーフを巻いている。
朝食はバイキング。キムチも出ているが、色が薄く、発酵が浅い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この後、何回か遭遇するが、沖縄の豆腐ようのようなものもあった。
非常に塩辛いのだが、現地の人はどうやって食べるのだろうか。
朝8時頃、普蘭店に向かって出発。
バスは、残丘状の平原を進む。金州から約2時間。
途中で、はでな葬儀、埋葬(土葬)の場面を目にした。
馬、ロバ、牛ともそれ違う。
 
普蘭店から南が、戦前の関東州である。
バスは清泉寺を目指す。市内から30分ほど。
ちなみに、この辺りまでが、戦前の関東州だ。
 
ここは高句麗時代の呉姑山城の跡だ。
寺の前の道は舗装したてであるが、
ガイド氏が下見をしたときには、まだ舗装されていなかったそうだ。
道の両側には巨大な道教的線香を売っている露店がちらほらある。
 
寺に入る。周囲はアカシアが満開だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その中、縁日が開かれていた。そのため、バスが中には入れず、
予定外の「散策」に。
ウィグル人の店(写真)や朝鮮族の店など、様々な露店が出る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ピータンを揚げているところもあるが、中にはロバをまるまる一匹という店も。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺の入口に高句麗式の城壁が遺る。日本式で言えば升口(甕城)をつくることと、
石の中央をふくらませるのが、高句麗式の特徴。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺の中は、道教の影響を受けたものが多かった。
道教のお札も売られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ところで、寺にあったトイレ…。ガイド氏がきれいにするように頼んでいたそうで、
きれいになってはいたが、使いにくい…(使わなかった)。女性はどうだったのだろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
普蘭店に戻って昼食。大きな肉団子、里芋のポテトフライ風、
山芋の「大学芋」が印象的だった。中国湯葉の和え物も美味しい。
また、魚の炒め物にパクチーが乗っている。
前回の旅行の時に比べて、パクチーが使われている料理が多い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ガイド氏は田舎料理と言っていたが、今回の旅行の中では、
一番素朴な料理であった。ビールは青島ビールの純生。味は濃い。
午後は旅順へ行く。まず203高地、旅順駅を見る。
203高地の売店。商売熱心すぎ…
旅順駅は目の前が旅順港である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
港は未開放地。でも、李鴻章の北洋艦隊がいたところかと思うと
妙に興奮する。続けて旅順刑務所に。処刑場を含めて
刑務所全体が公開されているが、
安重根が拘束された牢獄が印象深かった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
解説板を見ていると、中国語と韓国語。
韓国人の訪問客が多いことがわかる。
その後東鶏冠山を観光して、大連市電を眺めながら市内に。
町は6年前に比べて垢抜け、人々の服装も東京とそれほど違いがない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は中山広場のそばで食事。旅行中一番上品なものだったかも知れない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エビに春雨状のものを蒔いて揚げたもの、
茹でたブロッコリーとニンニク。。
椎茸とチンゲン菜。キュウリとベーコンの炒め物。
山クラゲとジャガイモの煮物などなど。ビールは青島ビールの純生。
金州、大連を含め、海に近いせいか、魚の味はよかった。
 
駅前の大連パールホテル泊

Posted by hajimet at 22:32 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行(1日目)5月27日

この日から6月3日まで、
7泊8日の中国東北部の高句麗、満州、渤海などの遺跡を見学するツアーが始まる。
 
直前にかかりつけの内科医に行き、
風邪薬、咳止め、消炎鎮痛剤、消化剤、下痢止めをもらい、
他にめまい止めなど常備薬を持って万全に備える。
 
仁川経由で飛行機は13時20分(現地時間)、ほぼ定刻に到着した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この日はまっすぐ20キロほど離れた金州へ行く。約1時間。
大連のある地域とは、狭い金州陸橋で繋がっている。
道路沿いには、日本や韓国の企業、開発区が続く。
「アカシアの大連」というが、花は終わりつつあるようだった。
 
金州は大連が出来るまで、この地域の中心地であったが、
そこからさらにバスで20分ほど進んだ大黒山山城に向かう。
高句麗時代の山城で、隋の煬帝はここを攻め落とせなかった。
そればかりか、隋を滅ぼす原因となった城だ。
入口が西にしかなく、あとは急峻な峰に囲まれている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実際に、山の上からは黄海、渤海湾、大連方面、東北平原が見えるはずだが、
かすみにけぶって見えなかった。
山は高尾山級で、大連市民の憩いの山だと言うことだ。
時間的に、下山する人で溢れていた。山の下には、食堂や露店が出ていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
金州市内に戻る。町中には「餃子の王将」など、日本の店も多く出ている。
夕食は餃子の店だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水餃子は美味しかった。また、セロリに軽く火を通して炒めたもの、
キュウリとイカを炒めた者も美味しい。キクラゲの炒め物も。
ここで呑んだ青島ビールは、薄いだけだった。
 
夜は金州賓館に泊まる。

Posted by hajimet at 22:05 | Comments (1)