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2014年6月26日
「ひっくり返し」と「引っ張りだし」…道教を勉強しつつ
ここのところ、道教の本を読んでいて思ったこと。
おみくじ、鍾馗様、地鎮祭などなど当たり前のことが、実は道教由来。
基本的には漢民族だけの宗教で、中国国内でも漢民族以外は信仰しない。

しかし、日本でも風俗習慣だけではない。
斉明天皇絡みの遺跡は道教の影響が強いという指摘があるし、
神仙思想なども道教からきている。

五斗米道などの道教教団は日本には入っていないから、
「道教」そのものというようりも。道教思想、文化が
日本に入ったと捉えてもいいかもしれない。

もともとが東洋的アニミズムだから、
日本の神道と親和性性のある部分もあるようだし、そうでもないところもある。
また、中国人の影響の強い長崎は媽祖信仰含め、土地神など直接の影響も感じる。

そんなことを調べている内に、ふと思いった。
「社会科の授業って、無意識の意識化」なんだろうなと。
言い換えれば無意識であったものを意識の世界に「引っ張り出す」こと。

英語は自分たちにない概念を定着させつつ、それを利用していく。
国語は全ての教科の基礎。古典、漢文を含めて。
数学は(実は、極めて実践的科目なのだが)生徒に実践のイメージがわきにくい。

それに対して、理社は、
漠然と自分の周りに広がっていた世界を、それぞれの科目の視点で意識化していく。
国数英の基礎の上に、本人の世界を広げていく作業なのだと思う。

目黒が目黒不動から来ている地名で、実は五行説から来ている(これも道教)。
目白も同じと気がつけば、
単に山手線の駅名としてしか意識していなかったことが、
それ以上のものだと、急速に広がっていくだろう。
そして、目赤、目黄、目青は?となる(江戸時代は目赤までだそうだ)。

そういう科目なのだなと、道教を勉強していて気がついた次第。
普段の授業で、こういう作業をしているのだが、
自分の中では明澄に意識化していなかった。
道教の本を読みながら、その点を強く感じた次第。
そして授業とパラレルに考えてしまった。

韓国関係で韓国の関係者と話をしていると「歴史問題」が話題になる。
だが、先輩教員が
「必ずしも歴史から入る必要は無い。どうやっても歴史にたどり着く。
それよりも色々な門を作れば良い」と言っていた。

このことはつねに意識している。
だが、無意識を意識化すると言うことからすると、
扉を作ると言うより、具体的イメージで「何」を引き出すのかが重要で、
それが、結果として「教える」という事なのだろうなと感じた。

同じような事を、これまで「ひっくり返し」という言葉で意識していた。
そうだと思っていたことについて、意識しなかった視点を与えて
(ひっくり返して)、視野を転換していくと言うことである。

このことと、「引っ張りだし」は、結論的には同じことになる。
だが、本人の中に「きっかけ=無意識部分の知的・経験的蓄積」がないと、
「ひっくり返し」は成功しないことになるであろう。

何か「きっかけてき部分」があって、それをうまく引き出せることが
結果として「ひっくり返し」と言うことなのだろうと考えている。
Posted by hajimet at 20:57 | Comments (0)


2014年6月22日
薄皮を剥いたニンニクの保存〔朝鮮日報記事より)

薄皮を剥いたニンニクを保存するには。
2014年6月21日の朝鮮日報の記事。
 
「密閉容器の底に砂糖を薄く広げ、キッチンタオルで覆ってから
皮をむいたニンニクを入れておくと、新鮮さを保つことができる」。
 
ニンニクの使用量は世界で1770万トン生産されるが、
1人あたりの消費量の世界一は韓国で、年間7sにもなる。
 
世界平均が0.8s、日本は0.3s。韓国の消費量は日本の20倍以上。
香り付けではなく、料理には大量のニンニクのミジン切りが入るし、
日本の七味的な感覚で料理に投入することも多い。
焼き肉や刺身では生のニンニクや、揚げニンニクを一緒に包んで食べたり、
突き出し風に生ニンニクや、ニンニクの醤油漬け、酢漬けが出てくる事もある。
 
食材としての使われ方がまったく異なるということだ。
日に何カケも使うから、事前に薄皮を剥いておくことも多い。
薄皮剥きは結構大変だからだ。
 
それだけに、保存方法も関心事になるのだろう。
使いかけのニンニクをどう保存するかと言うことと別次元の問題なのである。

 

Posted by hajimet at 09:50 | Comments (0)


2014年5月2日
中学と高校の違いって(社会科
今日の授業。倫理と日本史。当然、扱う内容は異なるのだが、その中で同じことを伝えていたことに気がついた。

倫理は、「人間とは」、「青年期」と進んだ。倫理全体の導入の役割を持っている単元で、これを話すことによって、思想への動機付けをする。ただ、「問いかけ」が多い寡黙でもあるので、そのような思考態度になれていない生徒にとっては、苦痛でもある。そのため、「眠く」なる生徒も多い。

今日の授業はそういう生徒の多いクラス(1年生だから、そもそもそういう思考になれていない。高校生に脱皮する直前)。ぱたぱた寝始めた。そこで、

「寝ていると分からなくなる。今説明していることが大事。自分ならどう考えるか、どうあるかが大切。社会科は暗記だから好き嫌いという人がいるが、高校の社会科は覚えることではない、ソクラテスが何を言ったかということを覚えても仕方ない。考えていくことが中心」と、そのような生徒を起こそうと思って語った。勿論経験上、そう語ったからと言って、起きてくれることはまずない。

次の授業は、「フェートン号事件から日米和親条約の開港地」まで。2年生対象で、2時間連続授業。歴史と歴史物語は異なるから、どうしても抽象的な話が多くなる。しかも、激動期だから、政治、経済含めて、様々なことの理屈も知らなければならない。近代国家とともに、東洋の冊封体制もイメージづけることになる。

授業をしながら、
「覚えることが大事でなくて、想像してみることが大事。自分なら、この状況でどう考えるか、行動するか」が大切。と語った。結局は人の行動、人の考えがベースなのである。ただ年号や事項を覚えるのでなく、考えることが大切。

ここまで話して気がついた。倫理でも日本史でも同じような事を語っている。要するに、素材が違うだけ。実は、「考えること=イメージづけること」は自分のテーマでもあるのだけど。
Posted by hajimet at 00:09 | Comments (0)


2014年4月16日
ウドンと韓国と

韓国の友人が韓国のヤマダヤという饂飩店で饂飩を食べたときの写真。
よく見ると、いろいろ「違和感」が。韓国の文化に合わせて微妙な変形がおきている。
 
ウドンは韓国でも食べられている。韓国語でも우동(ウドン)という。
関西風の味で韓国食に飽きたときは本当に助かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ところで、一方の文化が他方に入るとき、他方に受け入れられるように変化する。
意識的に変える場合もあるが、意識せずとも
自分の文化に合わせて何かしらが変わるものである。
この写真はそのことを語っている
 
大久保などで食べられる、日本の韓国料理も同じだろう。
…キムチが別料金って、韓国での韓国食に慣れた感覚では信じられないことである…。
 
ところで、この微妙な「違和感」が日韓の色々な軋轢の元凶ではなかろうか。
多分、ドイツでドイツ人が日本食をお店で出してきた場合、
それが、日本の感覚ではおかしなことであっても、
「それで?、ドイツだからね」で終わるように思う。
 
テレビで「とんでも日本食」を紹介しているが、「とんでも」を楽しんでいる。
「どうしてこうなっちゃたの?」「ありえへん」と楽しんでいるのだ。
楽しめると言うことは、つまり別物と考えているということだろう、
 
だが、、韓国は人の姿も、街の様子も、文化的にも
あまりにもよく似ているから、かえって微妙な違いが気になる。
そこを面白く感じるか、不愉快に感じるか。
 
つねに社会の中に両方の層があって、
そのときの社会情勢に応じてどっちが優勢に出てくるかということなのだと思う。
 
現在の状況は、
これまでの韓流が凄ごすきたから、反動も大きく出ているのだろうと思う。
日本側の事情の一つとしては…。

Posted by hajimet at 10:50 | Comments (0)


2013年10月14日
正義とは(朝日10131009)

新聞の投稿欄に掲載されていたもの。授業で様々に利用できる。

Posted by hajimet at 23:20 | Comments (0)


2013年9月4日
似ているけど違う日韓の文化

ここ数年倫理を持った影響で、
社会の基底にある思想面に興味が行くようになった。
 
1991年、始めて韓国に行った時に、あまりにもよく似た景観や雰囲気と、
どこか違うことを感じた。
 
それ以来、似ているのに、違うところはどこから来ているのかに関心を持ち続けている。
最近は植民地時代になる前、日本と韓国で「近代」のとらえかたの違いが
どこから来たのかに関心がある。欧米列強に対応するしかたがかなり異なっているのだ。
そして、この違いは極めて現代的な問題であるとも考えている。
日韓での問題に対する対処の仕方の違いと、根は同じように思うからだ。

もちろん、近代の捉え方の違いは、
その当時の社会や国際関係、地理的背景もあろう。
それとともに、問題に対してどのような道を選択するか判断しなければならないときに、
ある結果を選択したことについて、上記のような意識的なことの他に
無意識的な社会の基底にある思想も影響を与えていると考えることも出来る。

日中韓とも宗教文化の基礎はシャーマニズムとされる。
それが、それぞれ、神道、巫、道教となっていった。
元もが同じような機能を持っているため、お互いに教団の形で入り込むことはなかった。
また、神道は、国家のレベルの信仰にまで高められた歴史を持つ。
 
この3つの宗教、民間信仰はそれぞれの地域で発展した。
しかも、それぞれが、儒教、仏教、道教(日韓)の影響を受けて変質している。
 
あるいは、仏教、道教、儒教、キリスト教にも影響を与えて、
これらも、各地域でそれぞれ特徴を持つものに変わっていた。
 
ところで、宗教が流入した場合、元の要素を残しつつも、
地元の文化の影響を受けて土着化していく。
その医官点から、キリスト教と隠れキリシタンを見るのも興味深い。
これを見ることで、比較の対象や、新たなものの見方の訓練をしているようだからだ。
 
また、長崎のことを調べていると、唐人貿易が続いた影響で、
他の地域にはない、長崎独自に道教の影響があることが分かる。
 
ただ、道教が混ざり込んでいると言うだけでなく、
どの部分にどう混ざり込んでいるのか、それまでの信仰と置き換わっているのかなどと
考えるのも面白いと思う。
 
日韓で言えば、シャーマニズムという共通性を持ちながら、
一方で神道、一方で巫になっていったところが、日韓の違いだと言うことも出来る。
 
多分、韓国の法律解釈と日本の法律解釈の違いも、
この点が背景にあるのだろう。
背景を意識していかないと、
かみ合わない状態が続くように思う。

Posted by hajimet at 22:11 | Comments (0)


2013年5月12日
高校で韓国語を教えること…教え子の近況を聞いて

高等学校では様々な科目が置かれている。
その教科、科目は文部科学省が定める学習指導要領で決められているのだが、
それ以外にも学校設定科目として設定できる科目もある。
 
外国語の場合、文科省の定める共通必修科目である外国語(教科)の
英語(科目「コミュニケーション英語」など)に代わる学校設定科目として、
ドイツ語、フランス語、中国語などと共に韓国語を置くことが出来る。
この場合、学習内容は英語に準ずる科目として扱われる。
 
学習指導要領の外国語教科に英語しか出ていないため、
学校設定科目とするのだが、
要するに、英語でない外国語を、英語の代わりに必履修科目として学ぶと言うことになる。
 
一方で、外国語の必履修科目を英語にした上で、
さらに韓国語などを置く場合には、それは学校設定の選択履修科目、
いわゆる「第二外国語」になる。
 
「第二外国語」は、生徒にとっては履修しなくてよい科目だから、
教えるにはまず、それを学ぶ意義が問題となる。

高校は後期中等教育であって、大学の高等教育とは目的が異なる。
教科、行事、部活動などの活動を通じて人格の形成に資することがその目的だからである。
(これらはどれも学習指導要領に掲げられているものである)
その中で、どう位置づけられるかが大切になるのだ。
 
先日、以前からお世話になっている元校長先生から手紙が来た。


…Aさんを覚えいてますか?K大学に入ったのですが(ここまでは知っている)、
「あなたに教わったハングルが人生のスキルとなり、韓国人と結婚。
いまはソウル暮らしだそうです」と書かれていた。

Aさんは在日だったが、在学中はそれを隠そうとしていた。

韓国政府の交流事業で韓国に連れて行ったこともあったが、
そのときも韓国の出入国審査のときに他の生徒に分からないように手続きをさせた。
 
都羅山展望台に行くときには、パスポートを提出させられたが、
日本と韓国の旅券の色が同じだったので事なきを得たという思い出もある。


その後も、
センター試験の時に通名と本名で願書を出したのに、
本名で受験票が届き相談に来たこともあった。


受験番号では、今名乗っている名字と違う頭文字のところに座らなければならないからである。
そのくらい、在日であることを隠し通そうとしていた生徒だった。
きっと、本人自身のアイデンティティが確立できず、

その面での悩みが大きかったのだろう。

一般に、高校の時期は発達段階的にアイデンティティの危機に直面するといわれる。 
実際に、自分がどういう存在か悩む生徒は良く見る。
在日の場合は、歴史的、社会的背景もあって、
日本人以上にその悩み大きいのだと思う
当事者でないだけに、これ以上文章で表しきれない)。
 
そういう生徒のなかに、(多分)そのことで荒れたBさんもいた。
Bさんのクラスでは、2年間世界史、政治経済を担当したが、
Bさんは徹底的に私を避けていて、朝鮮の話が出た途端に教室から出て行くほどであった。
(今は通名でなく、民族名で活躍していると聞く)


そういう煩悶に近い悩みの時期を通過して、
本人の中で答えが出たのだろう。
自己のアイデンティティが形成されたのだ。だが、そのきっかけが自分の授業だったとは…。

韓国語の授業は生徒数も少なく、
普通の授業よりも生徒との距離が近くなる。
もちろん、社会科の授業とこちらのスタンスは変わらないのだが、
そうれはあっても、10m近く先まで生徒がいる教室と、
1m50センチの距離に全員がいるのではお互いに受け取りすることが違ってくる。

Aさんもそういう環境の中での生徒だった。
その人の人生に影響を与えて、幸せをつかんだという情報はとても嬉しいことだ。
だが、それだけに自分の気持ちを引き締めなければならないとも思う。
 
韓国語に限らず、どの授業でも同じなのだが、
韓国語の場合、高校で初めて受講する科目であるため、
特に刺激が大きいのだと思う(担当する範囲で同じような科目は倫理)。
 

他の科目は曲がりなりにも近い科目を勉強していて、
生徒なりの科目に対するイメージが出来ているからである。
韓国語も外国語科目として、英語教育と同じイメージを持っている生徒が多い。
そのイメージを崩しながら、一定の目標に向かって授業を構成していく。
 
授業の中で教室の状況に対応しつつ、
韓国に関して学んでほしい扉を、さりげなく準備している。
もちろん、こちらは扉を作って仕掛けているだけで、
生徒が気づいて開けてくれれば本望である。


Aさんは、たまたま、そういう問題意識があったから、
アイデンティティについての扉を開けることが出来たのだ。
そういう素質があったのだ。だから、今があるのだろう。

そういう点から、高校教師のは役目は、
その生徒の人格形成のための触媒だということになろう。

Posted by hajimet at 23:45 | Comments (0)


2013年4月15日
交流よりも、人とつきあうことを(竹島、尖閣問題を前にして)

…2012年、竹島、尖閣問題が起きたときに書いたものです。
 
ここのところの日韓、日中の軋轢。色々考えることがあるが、
決定的に大きな違いがあることにも気づいた。

韓流ブームの存在である。韓流ブームの結果、韓国に関心を持ったり、

韓国語を勉強する人が急速に増えた。そして、そこで「交流」レベルでなく、
実際に行き来したりつきあう韓国の人が増えた(これは事実)。
そうなると、日韓の政府レベルで何か問題がおきても
庶民のレベルでは「韓国にいる『あの人』」を連想することになる。

韓流ブームが始まる前は、韓国に行った人は多くても、

多くの人は旅行での接点でしかなかった。人の接触ではなかったのだ。
それが、「韓国語教室の○○さん」、「食の講座の○○先生」と
イメージが変わったのは大きいのだろう。仕事の関係でなく、個人的な関係としてである。
つまり、パイプが多くて、決定的なところまではいけないと言うことになる。

これに対して、中国の場合。

まだ、そこまでの関係を持っている人は多くはないのではないか。
仕事や留学以外の多くの人にとって、抽象的な中国でしかない。
先方から見ても抽象的な日本でしかない。
 
この違いが、今回の「対立」に対する人々の反応の違いに結びついているように思う。
先方の政府の「指導」が大きいこともあるが
それだけで、あの暴動までは説明がつかないように思うからである。

そういえば、韓国でも反日運動はあっても、暴動に繋がったことは記憶にない

(アメリカに対してはあったが)。
 
やはりある程度日本に知っている人がいて、
その人の存在がブレーキになったのかも知れない。
在日の存在が大きかったのかも知れない。
親戚が日本にいるわけだから…。(2012年9月28日、FB投稿記事)

Posted by hajimet at 23:33 | Comments (0)


ものを習うこと(話してみよう韓国語を中心に)

NHK総合のファミリーヒストリーで「小さん」師匠を扱っていた。
最後に花緑に語っている言葉で、
剣道に「守、破、離」という言葉があると言うことを語っていた。
 
最初は師匠に忠実に従う「守」。次の段階で師匠を乗り越えようとする、
そのための他の人にも見てもらう「破」。
そして自分だけの世界を作る「離」と言うことが必要だと語っていた。
どの分野でもそうなのだろう。

 2013年1月27日。「話してみよう韓国語 中高生大会」の大会を見た。
面白いことに、指導者のカラーが良く出ている。
コンクールだから指導のポイントが同じになるはずなのに、癖がでてくるのだ。
同じところを目指しているのに、面白いものだと思う。

 
高校生の場合、教員との距離が大学生や社会人より密接になるので、
教授者側からの影響は大きい。
 
習い事として、まずは、その先生の方法で韓国語を学習してほしい(守る)。
そして卒業後も続けるなら、新しい先生の元でさらに上の世界を目指してほしい。

 学習を進めるうちに、高校の時はよく分からなかったけど、
この先生の説明でよく分かったとか、あのとき、よく分からなかった発音の仕方が、
この先生に聞いたらよく分かったとなればそれで良いわけだ(破)。
 
しばらく勉強を続けて、あのとき、あの先生が言っていたのは、
「こういうことを、こう言う目的で言っていたんだ」、というところまで理解してもらえれば、
教えた方としては本望。すでに、自分の世界を築いていることになる(離)。

 ものを習うと言うことは、どれでも同じだろう。高みに登るための訓練者というか。
同じ山を登っても、麓の階段を上った先の神社から眺める景色と、頂上からの景色は違う。
上からの景色が良いことの方が多い。

 
しかし、闇雲に上れば良いわけではない。高い山になればなるほど遭難の確率も高くなる。
だから、ガイドが必要なのだ。ガイドごとに注意するところ、ルートの選び方、
天候などを判断するタイミングは異なる。
 
しかし、そのガイドについて登り、その醍醐味を知れば何回でも登りたくなるだろうと思う。
その後、最初はガイドに教わったとおりに上ろうとするだろう(守)。
 
だが、そのうち他のガイドや色々な人との出会いによって、
習ったことをベースにしながらも、それを克服しようと考えつだろう(破)。
 
そのうちに、自分なりの登山法を確立することになる(離)。
そして自分なりの眺望を楽しむことになる。
 
もちろん、一休みするとか、雨の時には雨宿りすると言うことも必要。
でないと、怪我したり、息切れして倒れることになるから。

Posted by hajimet at 23:03 | Comments (0)