遣新羅使の句碑

句碑

印通寺港から近い所に、遣新羅使雪連宅満の墓がある。736年に阿倍朝臣継麻呂を大使、大伴宿禰三中を副使として4月に奈良を出発した。大風で豊前に船が流され、6月に博多に到着。1月後に唐泊港で歌を残してから出発し、渡海した。このような中で新羅に着くものの、新羅との関係が悪化した時期で新羅に入国できず、日本に戻る途中天然痘で大使が死亡するなどの目にあった。雪連も壱岐で病死した。

雪連は壱岐出身の卜部の子孫で渡来系とも言われる。万葉集には死を悼む挽歌が9首残されているほど人望があった。墓も句碑の近くにある。

遣 新羅使が奈良に戻った後、筑紫から都へ天然痘が流行した。都でも藤原不比等の子、4兄弟が相次いで死亡するなど、藤原氏の勢力が一時衰退する事態となっ た。かわって橘諸兄が力を持ち、遣唐使の吉備真備らが聖武天皇に重用された。一方で740年に九州で藤原広嗣が乱を起こすなど、社会不安、政情不安も続 く。これに対して、聖武天皇が護国仏教によって国家の安定を図ろうとして、741年に国分寺建立の詔、743年に大仏建立の詔を出した。

雪連の死は、単に遣唐使の死と言うだけでなく、古代の大きな転機となった出来事に巻き込まれた死と言うことが出来るであろう。


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