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中国新聞  平成10年10月17日


平成10年10月17月より3ヶ月間、中国新聞が「せとうち三橋時代」 と題して26回にわたる大型連載特集を企画した。その連載特集 の第1回目の記事の冒頭に私が紹介された。
下記は中国新聞のホームページより転記したもの。



せとうち三橋時代

(1)30年の歳月  政治・経済の荒波もろに

 高度成長 石油危機  開通、14年遅れ




世界初の三連つり橋が急潮流の海峡に細身のシルエットを描く

来島海峡第二大橋の橋げた工事現場で共同企業体所長を務める  江草 拓(58)  は、橋梁メーカーでの「ミスター本四架橋」的存在だ。○○造船(現○○重工業)で、大鳴門橋、瀬戸大橋、明石海峡大橋の工事にかかわってきた。

愛媛県越智郡の生名島で育った。瀬戸内海に架ける橋が幼いころからの夢だった。「橋屋として存分に力を発揮できた。良き時代だった」と振り返る。紀淡、豊予海峡の架橋構想もあるが、「今の日本の経済力では、来島が最後の巨大架橋になる」と予感する。



上空から望む今治市来島海峡大橋。向かい側に連なる大島、伯方島、大三島、生口島などが7ヶ月余り後、しまなみ海道で結ばれる。


土壇場で着工延期

1969年、新全国総合開発計画で三ルート建設が決定した。翌70年に本州四国連絡橋公団が設立された。当時の国内総生産(GDP)の伸びは平均10%。本四架橋を推進したのは「高度経済成長」という時代の熱気だった。

当初計画は85年完成だから、結局、14年遅れの三橋開通である。「ここまで来られたのは新全総で三ルートを決めたことに尽きる。新瀬戸内海時代に泣く子をつくれない、という自民党全盛期の決定だった」。前広島県知事の竹下虎之助(74)の率直な感想だ。

だが、難産だった。加熱する日本経済に、オイルショックが冷水を浴びせ、73年11月20日、総需要抑制で本四架橋は土壇場で着工が延期された。本四公団第三建設局(三建、尾道市)の建設部長谷中幸和(53)はその日、5日後に迫った大三島橋の着工準備に追われていた。71年入社の一期生。「目標がなくなり、緊張の糸がプツンと切れた。今後、どうなるか、予測もできなかった」


「内需拡大」の象徴

建設凍結が解除されたのは75年8月。児島―坂出ルート、因島大橋、大三島橋、大鳴門橋の「一ルート三橋」の着工が決まった。当時、国土庁事務次官だった広島商工会議所会頭の橋口収(77)は「不況対策の目的も少しはあった。このころから、列島改造派の政治家、官僚が再び力を持ち始めた」と記憶している。

以後、「内需拡大策」と言えば「巨大事業」のパターンが定着する。本四架橋はそのシンボルだった。

尾道―今治ルートは、「地域開発橋」として一橋ずつ歩を進めた。まず伯方・大島大橋。続いて85年末には、縁故債増額など民間活力の導入による生口橋着工にこぎ着けた。全通へのレールが敷かれた。

この結果、本四公団は膨大な借金を背負い、地元負担も増えた。「金がない中での国の開発政策の転機。やむを得なかった」と竹下。公共工事への風当たりは厳しいが、谷中は「国力がある時、社会資本の整備は必要。長い目で見てほしい」とやんわりかわす。

経済変動にもまれ、政治決着を繰り返しながら、三十年近い歳月を費やして完成する瀬戸内三橋。ラストランナーのしまなみ海道は来年五月、不況という逆風の中で開通する。(敬称略)


☆以降、中国新聞の本四架橋連載特集は26回に及んだ。