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橋梁新聞  平成11年6月21日




リレー橋友録 「私の橋歴書」 〜本四架橋に関わって〜


○○○○工事梶@取締役長大橋室長 江草  拓



なぜ私が橋梁を専門とするようになったのかはうまく説明出来ない。戦時中の疎開と戦後しばらくの間、瀬戸内海の小島(生名島)で育った経験から無意識のうちに橋に憧れていたのかも知れない。

大学の専攻は橋梁工学を選んだ。当時の橋梁工学の教授は大御所の故安宅勝教授であった。勉強せず試験の成績が芳しくなかったため教授に呼ばれ「君は今回の試験は合格ではあるが成績は良くない。将来、橋梁を職業とするならば次回もう一度試験を受けたらどうか」と言われた。それから猛烈に勉強した。たったの一言で人生に影響を与えるようなことを世話になると解釈したい。

昭和38年○○重工(当時は○○造船)に入社し広島造船所の橋梁設計課に配属された。

年月が経ち、初めて本四架橋に関わったのは、昭和54年、大鳴門橋の主塔の設計からであった。架設工事がある程度進んだ頃より、主塔が風により設計値以上の渦励振振動を起こした。

原因として疑われる膨大な項目を虱潰しにチェックし、ついに油圧ダンパーの温度補償弁の内部油漏れが発見された。これを契機として、メーカーとして諸元を具体的に決めなければならない設計の立場からいろいろの橋の耐風対策に随分関わることが出来た。

この頃の公団の方々は進取の気性と気概を持った人が多かったと思う。気性が激しく他人の言うことをまったく聞かない人、ねちねちとどこまでもしつっこい人、あくまで根拠を徹底的に求める人、豪快に決めていく人、いろいろ個性の強い人が多く、こちらも真剣だった。

次いで南備の主塔や沖縄の泊大橋、広島県の海田大橋などに関係し、耐風対策をするかしないか、するとしたらどこまでするかに関してメーカーの設計の立場で関与した。設計課長の時代であった。

この頃印象的だったのは、沖縄の泊大橋が地元に非常に期待され、大ブロック架設時に集まった多数の見学者が、押されて海に落ちた場合の対策が必要なほどだったことである。社会に役立つことよりも自分の楽しみに価値を求める昨今の風潮にあって、関わった橋が地元に喜ばれるのは嬉しい。

筑波の建設省土木研究所に建設された大型風洞には計画、設計から深く関与し、当時の本四公団の設計課長ほかにお世話になった。これは明石海峡大橋が100分の1の縮尺で入る世界最大級の風洞である。

一般に本四の長大橋梁は、その計画から詳細設計、現地架設まで実に多くの人が関わるため、関与しても歯車の一部の場合も多いが、この風洞に関しては新しいことも多く、風洞メーカーとしてやりがいがあり、印象に残った工事である。

平成7年7月より来島海峡大橋補剛桁の現場代理人となり、受注後の詳細設計の時代から愛媛県の今治市に3年9ヶ月滞在した。この橋は急潮流の狭い海峡に架かるため、航行船舶との関連で、補剛桁の架設は50分以内との命題を課せられ、海事関係者ほかと折衝が多かった。

技術的な諸問題と併行して、いろいろ立場の異なる人との調整に腐心したことが記憶に新しい。自分の庭ではなく他人の庭を借りて架設を行う橋梁工事では、利害得失が微妙に交差する人達との関わりも、お世話になった中であり人生の糧である。

当面の本四架橋は終わり、世界一の橋梁技術を持つ日本と言われるが、海外でも日本と違った構造、工法で長大橋が建設されている。次なる日本の長大橋の時代にはさらなるアイデアと新技術を持った人達が時代の要請に応じて出現するであろう。

橋のロマンとはなんだろうか。ラブストーリーには良く橋が引用される。歴史にも橋が果たした役割、悲劇が多い。スマートな橋も良い。歴史ある重厚な橋も良い。会社生活30数年間を主として橋梁に携わってきて、それなりのいろいろな出会いに感謝し、かつ今からの出会いを期待して、私の橋歴書としました。

☆写真は省略