長春とは(歴史)
【長春とは】
長春は中国東北部の黄土台地のはずれにある。町の中を松花江へと連なる伊通河が流れ比較的肥沃で、トウモロコシ、大豆の一大生産地帯である。 長春の南方は徐々に高度を上げながら長白山脈へと連なる。この地域で高句麗、女真はじめ多くの騎 馬農耕民族が興亡した。長春南方50kmの伊通には火山群がある。これは白頭山へとつらなる火山群の一つで、ホットスポットにできる火 山である。

【長春城】
長春の歴史は1800年、清国が伊通河沿岸の長春堡に「長春庁」を設置したことに始まる。長春庁のある「長春城」は奉天(瀋陽)城と異なり、簡単な作りの 城であった。ロ シアが中国東北地方に勢力を伸ばしてくると、ハルピンから大連までの東清鉄道の敷設権を得て(1898)、開通させた(1901)。長春も鉄道が通った が、ロシアが設けた「寛城子駅」と「鉄道付属地」は長春城から離れたところであったために、長春そのものは殆ど発展しなかった。

【日露戦争と長春の発展】
日露戦争の終戦交渉で東清鉄道の分割が問題となり、長春以南が南満州鉄道として日本側に引 き渡されることとなった(長春以北の「北満鉄路」は1935年に 満州国政府が買収、満鉄により運行)。レール幅の違いから長春は南満州鉄道と 東清鉄道の乗り継ぎ駅となるとともに、日本とロシアの権益の接点となった。日本は長春に広大な鉄道付属地を設け、都市計画・開発に乗り出した。建物もアー ルヌーヴォー調の建物を建ててロシアと対抗しようとした。

【満州国の建国と長春】
長春の経済活動が活発化すると、長春城の中で活動していた中国人も居住地を広げるようになった。日本は満州事変(1931)を経て、満州国(中国では「偽 満州国」と呼ぶ)を建国する(1932)。満州国の首都は新京(長春を改名)に定められた。

当時の満州の経済の中心地である奉天(瀋陽 奉天は清国時代からの地名)では、張学良はじめ地元勢 力が強いため反日意識も強いうえに、場所が国土の南に偏っていた。満州国にとっては既存の中国勢力を如何に封 じ込めるかが 課題だった。一方、ハルビンではロシアの勢力が強すぎる。

それに対して、長春は地元勢力が弱くほとんど政治的に無色の地域であり、位置も国土のほぼ中央にある。しかも奉天と異なり小さな都市のため地価も安く都市 建設をしやすい。

首都新京では満州帝国皇帝溥儀の仮居所が設けられ、新たな都市作りが始まった。長春駅から まっすぐ延びる道路をさらに延長して、大同大街としてメインス トリートとした。その隣に順天大街が作られ、皇宮を作ることとして、その前に官庁街を建設し た。宮殿は満州国の崩壊によって完成しなかったが、現在でもこ のときの都市計画がそのまま引き継がれている。また、国策会社として「満州映画協会」の撮影所も設けられ(1937)、長春は現在まで続く映画の都(電影 城)となる。

【戦後】
1945年太平洋戦争で日本が負けた後、1948年に中国共産党側に解放される。1949年の中華人民共和国の成立後、中国政府は長春で重工業を重視し た。特に「紅旗」などの高級乗用車を作る「第一汽車」などは知られている。さらに学術研究機関が集まっていることでも知られる。

現在の長春市の総面積は20571平方キロ(市街区は3583平方キロ)で、総人口718万人。ここに漢民族、朝鮮族、モンゴル族、回族などの46民 族が生活している。

長春南部の平原 旧関東軍司令部 満州皇宮前にて

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