長春駅

長春駅は日露戦争によって東清鉄道と南満州鉄道の接続駅となった。ロシアに対する玄関口であったため、満鉄は大連、旅順、桴、奉天と並ぶ五大駅として整 備が進められた。整備された時期は大連、旅順より早い。長春は駅舎の整備とともに旅客の接続 が優先的に考えられた。東清鉄道と満鉄のレール幅が異なったためである。

もちろん、東清鉄道が大連まで建設したときには、ロシアの軌間である1524mmで建設され た。しかし日露戦争中、日本の占領地では野戦隊が日本の軌間 (1067mm)に改めて、日本から輸送車を持ち込んだ。ロシア側が列車を引き上げてしまったためである。そして満鉄開業時に朝鮮や中国と同じ軌間であ る、 1435mmに変更することとなった。列車を走らせながら軌間を変更していって、1908年5月30日から営業運転に入った。

そのため長春と隣の寛城子駅の間にそれぞれの軌間のレールを1路線ずつ敷いて、旅客は長春駅で乗り換え、貨物はそれぞれ満鉄側が寛城子、東清鉄道側が長春 まで乗り入れることとなった。そのため真っ先に乗り換えホームが整備され(1908)、続いて駅舎が作られた(1914)。現在、当時の駅舎は残っていな い。

駅南側は満鉄の鉄道付属地として開発された。鉄道付属地は鉄道の警備のため線路から一定の距離を満鉄が管理するもので、清国にとっては治外法権の地域であ る。これは 満州帝国の成立する1937年まで続いた。

長春駅では直系180mに及ぶ円形の広場をおき、そこから南方へ長春大街(大同大街)を作り、その道を元にロータリーで結ぶヨーロッパ型の都市計画を行っ た。ロータリーの 反対側には大和ホテルと満鉄の支社が建てられた。

長春駅駅舎(新築された)
長春駅前広場 旧満鉄新京支店と大同大街(手前)

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