名護屋城



破城を示す 小西行長の城門 天守閣跡より壱岐方面を見る

名護屋城は文禄慶長の役の時の本拠地として築かれた城である。ここから壱岐の勝本城、対馬の清水山城、釜山の釜山本城を 結んだ。築城後大きく拡張されていて、石築に祖の違いが見られる。拡張した理由としては、城の築城技術が日進月歩のため、新しい技術を取り入れたことや、 ここに滞在している武士の労働の場を確保するためということである。拡張される前の城壁は埋められていたが、一部発掘されている。

本丸に入る手前の城門の隅石は縦になっている場所がある.これは、小西行長の担当した部分と言うことである。天守閣跡よりは配下の大名屋敷が一望できると共に、壱岐、対馬方面が見渡せるが、対馬は年に数回見えるだけとのことである。

名 護屋城は徳川時代の一国一城令に伴って廃城となった。唐津城に対して、馬が2匹しか通れない道では都市が維持できないこと、豊臣方の城であること、朝鮮と の国交関係という外交関係から廃城されたという。廃城になった証拠に隅石が故意に崩されるなどして破城を象徴すると共に、天守閣の部分が地下の基礎面まで 破壊された。実際に通信使がここを見に来ている。

城の様子は佐賀県立名護屋城博物館で見ることが出来る。




全景(復元) 武家の屋敷
秀吉の船
 
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