勝本城

|

|
枡形と城壁 |
枡形(破城の証拠) |
壱岐の最北端、勝本にある。北には対馬が見える。壱岐の南側は呼子の名護屋城であるから、韓国まで互いに見通せる距離にあることになる。
勝本城は豊臣秀吉によって1592年からの文禄慶長の役に備えて、1519年に平戸藩主に築かせたもので、勝本城、対馬厳原の清水山城、上対馬、釜山本城を結ぶ補給路にしようとし
た。城は短期間で築城され、戦争中、本多因幡守が滞在したと言うが、戦争終了と共に
建物は取り壊され、廃城となった。
現在、一の門と二の門の間の枡形と、石垣が残っている。これら枡形の角の石垣は意図的に崩されているが、これは破城にしたことを示すもの。同様のものは名
護屋城でも見ることが出来る。
山の中腹の能満寺には芭蕉の弟子である河合曽良の墓がある。1710年、巡検使の随員として壱岐に来て、病死した。墓は勝本港を背にして
つ。