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 武富廉斎は、一郎右衛門咸亮といい、“明人十三官”の曾孫にあたる。
父は、四郎右衛門常古。母は、“多久家”の家来今村氏の娘である。

廉斎は、幼き頃より読書を好み、初めに関尚樸に漢学を学び、
16歳の時に京都に遊学し、中村楊斎の門に入る。
また、諫早の慶岩寺住僧より筑紫琴を学び、京都の公家衆よりは琵琶を
学んだ。


【 考鳥絃 】

ある時、父“常古”が長崎に行った際、清国の商人が由緒ある琵琶を
持参していたので、これを買い求めて家蔵とした。
後に、廉斎がこの琵琶を携行して京都に上りたる時、琵琶の由緒等が
後水尾天皇の上聞に達し、琵琶を叡覧に供せよとの詔があった。
そして、御前にて弾奏の運びとなり、帝より「叡感浅からず」と褒められ、
琵琶に『考鳥絃』の名を賜った。


【 大財聖堂の建立 】

元禄5年(1692年)、城下大財の別荘の地を整備し、廉斎自ら設計にあたり、
聖堂の建設に着手する。そして、3年の月日を経て落成となる。
その傍らには、講堂「鳶魚斎」と塾舎「依仁亭」を設けて、
藩中の子弟に経書を講じていた。

そして、元禄9年(1696年)、藩主鍋島綱茂候は、廉斎を儒者として
召し出し、“士班”に抜擢した。
長男の英亮も槍隊を拝命した為、廉斎は、家業を次男善之助に譲り、
長男英亮と共に別家を創立した。
これが、手明鑓(切米15石)の“大財武富家”として続く事となる。

 完成した大財聖堂には、藩主綱茂自筆による孔子像、蓮池鍋島直之自筆の
顔子像、村田政盛の曾子の像、そして、大清国新安村の学朱敬から贈られた
先聖殿の額を学号の額とし、朝鮮国上護軍の李武錫からの大宝聖林の額は、
南門の額とした。また、廉斎自筆の萬古長春の額を堂にかけた。

 また、佐賀藩の重臣である“多久家”において孔子廟が建設される運びに
なった際、廉斎は、相談役に任じられている。
この孔子廟は、宝永5年(1708年)に創建され、現在に至っているが、
日本最古の孔子廟の一つで、『多久聖廟』と呼ばれている。
 
儒学者 ・ 大財聖堂建立
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“多久聖廟”
(多久市)
武富廉斎(咸亮)は、
“大財聖堂”建立の後、
多久家の聖廟建設の相談役に
任じられている。
つまり、大財聖堂に倣って、
多久聖廟が建立されたのである。

現在、この“多久聖廟”は、
国指定の重要文化財となっており、
春と秋に“釈菜”というお祭りが
行われている。
廉斎ゆかりの地である“大財聖堂址”や“多久聖廟”などを訪ね、
写真に収めました。
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大財聖堂址
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大宝聖林碑
多 久 聖 廟
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称 念 寺
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系図
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