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儒学者 ・ 藩校“弘道館”教授
武富い南は、名を定保、字を元謨、通称を文之助といった有名な学者で、
『 博学多才、和漢古今の書読まざるなく、
            詩文書画能せざるなし 』と言われた。

初め、中村嘉田に学び、後に江戸にて勉学する事3年、
帰国後、藩校“弘道館”教授となり、多くの人材を教育した。

さらに、弘道館教授“枝吉神陽”を中心とする
佐賀勤皇運動の組織である“義祭同盟”にも名を連ねている。
この同盟の主要なメンバーは、武富文之助(い南)、副島種臣、
島義勇、江藤新平、大木喬任、大隈重信、久米丈一郎などであった。
(この同盟出身者の多くが、明治新政府の要職に就いている。)

なお、吉田松陰が著した「西遊日記」(1850年12月20日)には、
長崎からの帰途、藩校弘道館にて、枝吉神陽、武富文乃助らと
国情などについて会談したという記事が見られる。

晩年は、佐賀八幡小路に学塾“天燭舎”をおこし、
藩の文教におおいに功績があった。

墓は、佐賀市の“称念寺” 及び、東京“青山霊園”にある。
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〔 通称: 武富 文之助 〕
義祭同盟の本拠地“楠公神社”
義祭同盟の碑
【 逸話 】

 江藤新平が脱藩する際、廉斎先生(武富廉斎)の法要を行うという名目で、
 義祭同盟の同志が楠公神社に集まったという話が残っている。

  ※ 武富文之助(い南)は、“廉斎”から7世にあたる。                        

                           三溝武富家末裔 井原氏談
(佐賀市)
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