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初代“清右衛門”は、肥前名護屋城の築城に参加した武富種家の倅である。

種家は、足利時代の佐渡城主(現在の新潟県佐渡島)であったが、
戦いに敗れ、武士を捨てて肥前に来たのであった。
(肥前に来て、武富家の養子となったのか?)

種家は、名護屋城における石垣構築の功績によって、
再び武家に取立てるとの御下命も断り、平民のままである事を望んだ。
しかし、『 手厚くする様に 』との“豊臣秀吉”の指示もあり、
鍋島直茂は、新たに“石工棟梁”の職をつくり、任命した。
この“石工棟梁”の職は、名字帯刀を許された佐賀藩直参であり、
武士に準ずる身分と言えるであろう。

この種家には5人の倅がいたが、石工棟梁を相続したのは、
“清右衛門盛紹”で、以後、直系は代々、清右衛門を名のり、
佐賀藩の手がけた土木事業の現場作業の中心的な担当者として活躍している。
なお、残りの4人も、給人石工となり、佐賀藩に仕えている。

初代“清右衛門”は、佐賀藩初代藩主“鍋島勝茂”に重用され、
江戸城虎ノ門築垣工事の監修などを手がけている。
そして、明暦3年(1657年)、勝茂が没した際には、殉死をとげている。

   
石工棟梁 ( 土木事業の現場担当者 )
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清右衛門代々の事績
武富姓石工作品リスト
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佐賀藩総着到1845年