楊花鎮と外国人墓地

楊花津外人墓地は地下鉄2号線合井駅近くにある。外回りに乗って、地下鉄が地上に出る右側に広がる公園である。漢江ぞいにいくつも港があったが、楊花鎮付 近は水深が深く、多くの船が止められたため、ここで荷物を上げることが多かった。そのため朝鮮王朝の交通と国防の拠点となった地域である。朝鮮王朝末、大 院君はキリスト教徒の弾圧を行っていた。ところが1886年、その弾圧から逃れて中国に逃げたリーデル神父によってそのことがフランス艦隊に報告される と、それを口実にフランス艦隊2隻は漢江を遡り楊花鎮まで来た(1866年8月)。その後7隻が江 華島に来て、島を占領した(9月)。朝鮮政府側は楊花鎮に陣営を築き、フランス軍の侵攻に備えた。それと同時に、この側の切頭山でキリスト教信者の殺害を行った。従来は処刑は他の場所で行っていた。

楊花鎮に墓地が出来たのは1890年であった。最初の米国人宣教師ヘロンが亡くなったためである。米国側は朝英修交通商条約に基づいて墓地の設定を要求し てきた。朝米条約には該当条文はないのだが、最恵国待遇条項を使って要求した。しかし城内に墓地を作ることが出来ず、最初朝鮮側は提供しようとしたところ も、あまりにも条件が悪く墓地にできなかった。ヘロンが亡くなり遺体の埋葬も出来ない状態になったが、結局死後2日後に朝鮮側から現在の墓地の場所を候補 地として、最終的に定められた。当時の面積は920平方メートルほどで、丘陵地のため拡張しやすい場所であった(現在は13,224平方メートル)。

ここには現在に至るまで413名の外国人が埋葬され、中には日本に関連した人もいる(日本に関連した人はこちら)。また、朝鮮の開化期に活動した外国人や宣教師が多く埋葬されていて、宣教師だけで143名(家族を含む) である。近年墓域が整理され、楊花鎮外国人宣教師墓園として韓国基督教宣教100周年記念教会が管理、案内している(平日のみ公開)。

外人墓地の風景 要所要所での案内板 大韓毎日申報創設者ベセルの墓 君が代の編曲者
エッケルトの墓

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