鮎川古墳群 (須坂市)

本 堂の八丁兜塚1号墳(手前)、2号墳

千曲川左岸は積石塚の多いところである。大室古墳群が、 その数の多さで知られているが、鮎川古墳群は最古のものは5世紀前半に作られた、積石塚の中で最も古いものがある。

須坂は百百川や鮎川など数本の河川から作られた複合扇状地である。百百川などの水質が酸性が強いのに対して、鮎川はそうではない。この川沿いの段丘上に、 ほぼ一列に古墳が分布する。多くは失われているが、あちらこちらに古墳の残骸と見られるものがある。

この古墳群の一番奥には八丁兜塚古墳がある。このうち1号墳が最古の5世紀前半のもので、純粋な石積み古墳である。次に古いものは米持天神1号墳である。 こ れは土を芯にして方墳状に石を巻いたもので、上円下方墳でないかとされる。さらに百年の間をおいて、鎧塚2号墳となる。ここからは獅子の顔が彫られた金具 が出ている。韓国公州の宋山里2号墳に連なるものと される。これらの古墳は純粋な円墳、方墳でなく、隅に作り出しがあることに特徴がある(2号墳はそこに石棺がある)。

だが、残念ながら天神塚古墳は試掘の状態、兜塚は全面発掘されているが、盗掘されていて埋葬施設は分からない。遺物も残滓があった程度である。石材が橋の 材料に使われたり、農業の邪魔になる ため除去されたこともある。

この地域は、表面は草津白根山や浅間山の火山灰で覆われている。その下は人頭大の礫からなっている。積石塚が作られたのも、そのような土地の条件によると いう説もある。一方、少し離れたところには土で築かれた古墳も多い。

もう一つの考え方は渡来人、特に高句麗の墓制というものである。この地域に日本海側から渡来人に関連するものが出てきていること、後に官営牧が出来ている こと。兜塚1号墳からも馬具が出ている。また、須坂のある高井郡一帯は、高句麗に系譜を持つ人々の名前が出てくることから、高句麗の影響が強いことがわか る。

実際積石塚は高句麗の墓制であるし、高句麗が 5世紀に都を平壌に移すまでの都であった、国内上(中国集安)と風景な どがよく似ている。残念ながら、周辺からはそのことを直接示す遺跡は発見されていない。また、石室の形は百済公州の古墳の影響が強 く、その古墳との系譜関係も考える必要があろう。




八 丁兜塚2号墳 米 持天神塚1号墳 鮎 川(手前)と八丁兜塚(中央)

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