慶熈宮
瑞岩より眺める

慶熈宮(キョンヒグン:경희궁)は1617年に作られ始めた。慶熈宮の一帯が風水的に王を育てる場所だと聞いた時の王、光海君(クヮンヘグン:광해군)は、ここに住んでいる王族に王位を奪われることを恐れ、王族を追い出して跡地に王宮を作ることとした

出来たときは慶徳宮(キョ ンドククン:경덕궁)と名付けられたが、その後の国王、元宗(ウォンジョン:원종)の諡号、敬徳(キョンドク:경덕)と同じ音になってしまったため、それを避けて1760年に慶熈宮に変更した。

大小100あまりの建物があったが、日本時代に取り払われてしまい、京城中学校が建った。建物はあちらこちらに移転されたが、今でも東国大学に移された正殿、社稷公園(サジクコンウォン:사직공원)裏の弓道場などに撤去された当時の建物を見ることが出来る。正門の興化門(フンファムン:흥화문)も新羅ホテルの迎賓館の門に使われていたが、慶熈宮に移され、本来の場所ではないが見ることが出来る。

慶熈宮は一部復元して、2002年末から公開された。隣のソウル市立歴史博物館の敷地も慶熈宮の中である。市立博物館建設のために発掘したところ、百済時代から王宮関係まで多くの遺跡が出土した。

入り口の錦川橋と博物館 復元前錦川橋
橋の材料を使った泉
古い部材

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