将軍墓(米倉溝墓群1号墳)
将軍墓 内部(模造):五女山博物館 将軍墓よりの眺め

将軍墓は桓仁から南に10キロほど離れた渾河沿岸の丘陵地帯にある。伝説では初代高句麗王「朱蒙」の陵ともいわれているが、5世紀後半の石室封土墳で、石室には壁画が描かれている。壁面には蓮華文が描かれ、天井の各層の下面には王字型流雲門が施されている。

壁画墳は鴨緑江地域では集安に集中していて、あとは桓仁に1基あるだけである。5世紀は、すでに桓仁は都ではなく、次の都である集安もまもなく平壌へ遷都する時期であった。だが、桓仁も集安も高句麗人にとって重要な地域であったため、高句麗人が生活し続け、それなりの力を持っていたことを証明している。この地域には高句麗時代の古墳が数多く残されている。

将軍墓のある米倉溝村は桓仁満族自治権の雅江郷の中の朝鮮族自治郷でもある。近くには朝鮮族の集落があるが、家の作りは延辺などで見られる朝鮮式の入母屋ではなく、中国式の切り妻造りで立っている。

なお、この村は戦前、関東軍によってパルチザン殲滅のために焼き払われた村でもあった。

村の情景(1) 村の情景(2) 村の情景(3)

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