第2玄菟郡郡治
郡治(前方の土塁)

新賓は瀋陽と桓仁の中間、蘇子江ぞいの町で、新賓満族自治県である。満州族のヌルハチはここで後金をおこし、清へと発展していた。満州族にとって重要な場所で、清や満州国時代は「興京」と呼ばれた。

ここには第2玄菟郡の郡治(郡役所)がおかれた。元々漢が4郡を建てたとき(BC108年)、玄菟郡も置かれた。玄菟とは高句麗語で「黒虎」の意味であるが、その郡治は現北朝鮮の咸興であった。というのも勃興していた沃蘇と貃(高句麗)を抑えるためであった。この時、新賓には高句麗県が置かれた。高句麗の故地(桓仁方面)に近いことと、蘇子江から渾江(遼河)方面に勢力を伸ばしていたからである。しかし、この郡の設置がかえって高句麗を刺激してしまった。そのために紀元前75年に玄菟郡治を、高句麗県治のある新賓に移してきた。郡治の場所には高さ2m程の土塁が残っている。

し かし、ここも長くは維持できなかった。高句麗は国を興し、蘇子江に沿って勢力を広げてきて対峙したからである。至近距離に高句麗の城とされる仏阿拉城(旧老城)がある。そのためAD107年には、玄菟郡と高句麗県をさらに撫順に移すことになってしまった。だが、ここも高句麗に落ちると、さらに遼東方面に2回移転したが、結果的に消滅してしまった。

郡治から発掘された瓦(五女山博物館) 仏阿拉城(旧老城) 新賓市街(満族風の意匠)

前のページ    目次      HOME     次のページ