壱岐国分寺跡


国分寺跡全景(へ そ石付近より) 一部に残る礎石

へそ石のすぐそばにある。現在の壱岐国分寺とは別で、壱岐国に国分寺を作ることになったのは、国分 寺造立の詔(741)の後、744年のことであった。だが、経済力の弱い壱岐で、伽藍を造り、本堂、塔を備える国分寺を作るだけの経済力はなかった。そこ で、壱岐値の氏寺を修築することとした。それを基礎としたため伽藍配置も外の国分寺とは異なっている。僧侶も基準の20人よりもはるかに少ない5人を置く のみであった。

発掘により、7世紀末頃からの遺物がでるが、版築や伽藍らしきものが出るのは8世紀後半からと考えられ、11世紀まで官寺 の機能を保っていたと考えられている。軒丸瓦や軒平瓦は近くの太宰府のものでなく、奈良平城宮と同じものが出ている。平城宮製ではなく、平城宮と同じ判型 を使っていると言うことだ。それだけ、当時の国家がこの地域を重要視していた証拠と考えられている。

この寺が11世紀に機能を失ったのは、律令制が崩れたことと、刀伊の入寇があったからと考えられている。このとき3回に渡り攻撃を受け、建物は焼かれ、僧侶16人が殺されたと伝えられている。

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