少弐資時の墓


弘安4年 (1281)、2回目の元軍が攻めてきた。このとき元軍は島の北西部と勝本から4万の兵で上陸した。5月26日、これを壱岐守護代少弐資時が迎え撃ったが、あっけなく 全滅したと言われる(詳細な資料無し)。その資経の墓とされる。「ショウニイ様」と呼ばれて祀られてきたが、1898年に資時の墓であることがわかった。

元 軍は壱岐を根拠にして九州を攻めた。そこで、鎮西奉行少弐資経は兵を率いてここを攻めた。6月29日から7月2日までここで激戦が行われた。こここは、奥 深い入り江があることと、博多までの最短地点であるため、水軍、元軍の拠点になっていたと考えられる。なお少弐資時は少弐資経の三男である。

すぐそばに壱岐神社がある。資時を祀った神社で、1944年に建立された壱岐で最も新しい神社である。



説明板 壱岐神社

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