大野城跡
城壁

大野城は大宰府の後ろ、四王寺山中腹にある山城である。一部石築もあるが、大部分は土塁で築かれている。白村江の戦いで負けた日本は、665年、百済から来た達率億礼福留、達率四比福夫に大野城他二城を作らせた。これらの城と水城で大宰府を防衛しようとしたのである。作り方は、百済扶余の扶蘇山城同様、谷を渡って山を囲むように作られた包谷式の朝鮮式山城である。

城には4カ所の城門があり、南側の大宰府側には3カ所の城門がある。このうち大宰府口城門が成門であろうと考えられている。城の内部には高倉式と思われる建物のあとが70基ほど確認されている。

なお、山名である四王山は、大野城が出来たあと、約100年後にここに四天王を祀り、仏力で国を守ろうとしたことに由来するという。四天王は仏の国の入り口を守るものである。同じような機能を持たせた寺に、新羅の四天王寺(跡)がある。

大宰府口城門
建物礎石群 大宰府口から見た太宰府方面
    
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