(2)大乗経典 大乗仏教では、仏陀の精神が信仰の対象であるから、 仏陀の悟ったダルマについて語っていれば、仏説ということになる。 これは、キリスト教の聖書やイスラム教のクルアーンと大きく異なる。 そのため様々な法典が出来上がった。 古い順に般若経、法華経、華厳経が成立している。その特徴に
(ア)在家宗教 在家者を救済することが大乗仏教の目的。すべての人に仏性があるのだから、 日常現実がそのまま実践になると説く。
(イ)浄土思想 現世は穢れている穢土だから、浄土に往生して菩薩としての修行をつむ。 上方には弥勒が修行をする兜卒天があり、西方には阿弥陀が修行する極楽がある。
(ウ)一切衆生悉有仏性
(3)大乗の思想 (ア)空:龍樹(ナーガーリュジュナ 150-250 南インドのバラモン僧)によって形成された。 すでに、諸行無常、諸法無我から不変の実体がないことを仏陀が説いていた。 この固定的な実体がないことを「無自性」と名付けた。 自分は何物か。家庭では「子供」だ。 でも、それは親がいるから子供なのであって、弟がいれば、弟から見れば「兄、姉」になる。 そして学校に来れば「生徒」である。 言葉によって違った名称が付けられているだけで、 本人はその何れでもあって、その何れでもない。 観念によって「子供」、「兄、姉」、「生徒」が作り出されただけなのである。 すなわち、一切は本質的には存在していないのであって、それを「空」と名付けた。 プラスでもマイナスでもないもの、即ちゼロにあたるものである。 ちなみにゼロはインドで発見され、 ゼロにあたるサンスクリット語、ヒンドゥー語も空にあたる言葉も、同一の言葉で表されている。 言葉で作り出された観念にこだわるから、「苦」なのである。
(イ)唯識:無着(アサンガ、310-390)、世親(ヴァスバンドゥ 320-400)兄弟によって 理論づけられた。
空+ヨガ=唯識。
(生徒に質問をしながら)ヨガをしながら、仏陀は真理=ダルマを悟った。 ヨガの時は瞑想状態で、目は半開きながら具体的な物を見ていない(仏像の目)。 ではどこで真理を見抜いたかというと、心で作り出されたイメージによって見抜いている。 すなわち、すべてのことは自分の心が生み出したことに過ぎない。 あらゆる事物は自分の心が産み出したに過ぎないのである。これを唯識という。
空の理論を推し進めると、「何もない」のではないか、という疑問に対して 「心だけ」はあるという答えにたどり着いたと言っても良い。
人の感覚と認識の関係は次のようになっている 六根(感覚器官) 眼 耳 鼻 舌 身 意 六境(感じるもの) 色 声 香 味 触 法 六識(それぞれの認識)眼識 … … 意識
ここまでが意識作用。この先に無意識の世界がある。 まず末那識 ここは自我の部分である。自殺する瞬間、 上から石が落ちてくれば反射的に逃げる。 意識では死にたいと思っても、無意識の自我は生きたいと思うから。
次に阿頼耶識 生まれてから一切の記憶。それどころか生物が生まれてから 今までの一切の記憶が蓄えられているところ。だから、犬のまねなどが出来る。 ここに蓄えられた記憶によって、我々はものを見ている。 すなわち事物もアラヤシキによって産み出されることとなる。
この考え方は、ユングの深層心理、原形の考え方に大きな影響を与えた。
「ドラえもん」の最終話都市伝説に、 実はのび太は植物状態で、ドラえもんとの交流は、一切ののび太の夢だった、 で終わる話があるが、そうであっても、 そのときののび太にとっては「現実」。つまり「唯識」の世界だったわけである。
ところで、なぜ人は迷う=「苦}なのか。外的世界の縁起から来る「煩悩」によって 心が汚されるからである。本質的に心は清浄なのであり、 それによって、誰もが菩薩道を実践することが出来る仏性を有することになる。
なお、空と唯識のどちらを重視するかは経典によって異なる。
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