1.大乗仏教の発生
部派仏教は大きく上座部仏教と大衆部に分かれていた。 大衆部は戒律よりも仏教の精神=信仰を重視したが、 これと仏教の改革運動が合わさって、大乗仏教徒なった。 すなわち、出家僧を支えている在家信者をどう救うかが問題となっていた。
在家信者あってこそ、出家者は布施などで生きていくことが出来る。 しかし、在家者は三宝に帰依し、五戒を守るだけで現世では救われない。 これはおかしいということになったのである。 そこで、自分だけでなく他人も救いともに悟りを目指すという考え方が登場した。 縁起の中で我々は「ある」のだから、慈悲が必要になると言うことである。
すでに、上座部の時代から、生身のブッダと、ダルマを一体化する思想が出来上がっていた。 仏陀=ダルマである。お寺に釈迦像を拝むとき、実在の釈迦を拝んでいると言うよりは、 釈迦の背後のものに対して拝んでいるはずである。 その仏陀を絶対化し、超人化する思想が出来上がった。 その一方で菩薩の美徳を強調するようになった。 菩薩=菩提薩陀(悟りを得るために努力する人)
釈迦には前世物語がある。 何回も輪廻を繰り返し、菩薩道を繰り返してやっとの事で悟りを開いたのだが、 これまでは時間的経過に注目して、一般人は仏陀のようなことは出来ない。 したがって現世でたどり着ける最高の位置であるアラカンを目指していた。
しかし、大乗は視点を逆にした。 なぜ、何回も菩薩道を繰り返したのか。本来一回で悟れたのではないか。 それをわざわざ解脱しないで、自分の体をトラに与えたりしたのではないか。 では、なぜ解脱しなかったのか。 それは解脱してしまったら衆生に慈悲を与えることができないからだ。 トラに自分の体を与えたのも慈悲の精神から来ている。 だから仏陀は解脱を急がずあえてこの世に留まったのである。 そして、自己解脱より先に衆生救済に向かったのだ。「自利即利他」。
ここで菩薩道は、これまでの「ガウダマの道」ではなく、 万人に開かれているということになった。 すなわち、すべての人が仏陀(悟る)になれる仏性を持っていて、 慈悲を実践する衆生を菩薩と呼ぶ。それが求法者なのである。
これによってすべての人が平等だということになる。 そして在家者も救うことが出来る。 大きな船に人びとを乗せて救うことが出来ると言うことから、「大乗」というようになった。 一方で大乗側からすると、上座部は「自利」を中心としているとみられることになるから、 一人しか救えない、小さな乗り物だという意味で「小乗」と呼ぶことになった。
この求法者の実践徳目が六波羅蜜である。 cf.六波羅探題。 波羅蜜とはパーラーミータ:完成という意味で、6つの事を完成させなければならない。 それが、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧である。
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