« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2014年12月1日
日本史授業 20141201 桂園時代

桂園時代
1901年に第四次伊藤内閣に変わって桂太郎が内閣総理大臣となった。
桂は山県の後継で、藩閥系に属する人物であった。

国民にとって藩閥系である桂内閣は人気がなかった。
しかも、ポーツマス条約に対して支持しなかったため、
1905年内閣を辞職して、第一次西園寺公望内閣となった。

西園寺は政友会の総裁で、伊藤の後継者であるが、
桂から頼まれて首相となった
そして、政友会がポーツマス条約に賛同することを頼まれたのである。

従って、西園寺内閣は桂とまったく違った政党系内閣と言うよりは、
桂の影響が強かった内閣であった。閣僚も藩閥系の圧力が強くて、
政友会系は4人だけであった。

政友会は鉄道や港湾整備で力を伸ばしてきたが、与党になってからは
1906年に鉄道国有法を成立させた。

それまで日本鉄道など、鉄道会社が地域ごとに違っていて、
戦争遂行などで統一的運用をしなければならないときに、
障碍が大きかったからである。

だが、1907年に強硬に見舞われ、財政が行き詰まった。
西園寺は衆議院を解散して、総選挙を行った。選挙は政友会が圧勝したが、
山県の圧力が強かったため、総理大臣を辞職し、
1908年に第二次桂内閣が成立した。

第二次桂内閣は、戊申詔書(1908)を発して、勤倹節約などを国民に求めた。
日露戦争後の社会的混乱と社会主義を押さえる意味も持っていた。
この戊申詔書は教育勅語と並んで、戦前の道徳教育の柱となっていった。

この精神をいかすため、
地方改良運動内務省主導で行われた。
日露戦争の増税などで、地方財政は破綻してしまったため
それを立て直すということでもあった。

まずは、江戸時代の村落を、行政単位としての村落として掌握しようとした。
そのため、自然村落の神社を、新たな村落の神社として整理し、祭祀方法も統一したりした。

そして、青年会を新たな青年会に構成しなおし、町村長や小学校長が指導した。
また、在郷軍人会も帝国在郷軍事会に再編した。

一方で1910年、大逆事件が起きた。
天皇暗殺を計画して爆弾を製造した社会主義者を逮捕したことをきっかけとして、
無産主義(社会主義)者、無政府主義者が検挙された事件で、
幸徳秋水らが逮捕された、ねつ造事件である。
公判は非公開で行われ、1911年1月、26名中24名が死刑判決となり、
一部は減刑されたものの、幸徳秋水は処刑された。

ちなみに、社会主義は、人の本性は労働、生産であるが、現時点では資本家によって
利益は搾取されているので、資本家階層を打倒して、労働者による社会を作り、
これによって人間の本性を回復させようという立場である。この立場を推し進めると、
政府は必要ないという無政府主義に達する。

この事件は、ねつ造事件であったため、国際的な批判を受けた。

桂内閣は1911年に工場法も制定している。
常時職工15人以上の工場を対象としているため、
現実にはこの法律が適用される事業体は少ないが、
それでも、初の社会政策の法律として評価される。

このような法律を作ることによって、桂は社会主義運動の拡大を防ごうとした。

だが、大逆事件の影響は大きかった。桂は退陣し、1911年第二次西園寺内閣が成立した。
しかし、西園寺を支えていた伊藤が暗殺された後、山県有朋の権力が絶大になったため
内閣が維持できず、すぐに第三次桂内閣となった。しかし、これも二ヶ月で退陣した。

桂が山県と距離を置いて、独自の政策を行おうとしたことと、
憲政擁護運動に対抗することが出来なくなったからである。
1912年、桂が退陣したことで、桂園時代は終了する。時代も大正に入った。

Posted by hajimet at 21:21 | Comments (0)

Comments


Post a comment