恵蘇八幡宮
拝殿古墳への道 恵蘇八幡宮1,2号墳

朝倉は661年、、大和朝廷がその前年に新羅に滅ぼされた百済を復興するための拠点とした所で、ここに斉明天皇、中大兄皇子が移ってきた。海岸からかなり奥で、背振山地の反対側にある場所だが、瀬戸内海側から筑後川に沿って有明海側に抜けるルートと、那珂川経由で海から上がっていくルートの交差点にあたる。那珂川ルートは途中に水城などの防御線があるため、防禦に適した所と言うことになる。

斉明天皇は661年5月、朝倉橘広庭宮に遷ったが、7月24日にそこで死亡した。7日後に仮の遺体を移して殯を行い、仮埋葬された。仮埋葬された塚が神社の後山にある恵蘇八幡1、2号墳であるとする。そのため、この山を御陵山と呼ぶ。殯のときに御陵山の下に嬪殿を建てたが、丸木のまま急遽作ったと言うことで「木の丸御殿」と呼ばれている。なお、日本書紀によると、斉明天皇遺体は10月7日に朝倉の地を出発している。

恵蘇八幡宮は社伝によると661年に中大兄皇子が「宇佐八幡宮」の応神天皇を勧請して朝倉山天降八幡として祀ったことに始まるとする。その後斉明天皇と天智天皇を合祀して恵蘇八幡宮となったとされる。

なお、恵蘇八幡宮のすぐ下を流れる筑後川は、18世紀に現在の姿になった山田井堰によって農業用水である堀川に分けられている。分水は八幡宮前の岩盤をくりぬいて取り入れられているが、その岩盤上に「水神社」が鎮座している。

 恵蘇八幡宮入り口 山田井堰 三連水車
    
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