江草氏の
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ルーツを訪ねる旅
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2009年05月10日
§4.エピローグ (佐々木繁綱と武田信廣のその後)
戸屋ケ丸城の合戦では「佐々木繁綱」は敗者であったが、佐々木繁綱とその主人/武田信廣は、その後歴史に残る数奇な運命を辿ったことが記録に残されている。
 
 
4−1.若狭武田氏

安芸武田氏は若狭武田氏を分家したが、分家した若狭武田家の家臣が、あの戸屋ケ丸城の若き城主佐々木繁綱であったので下記にその経緯を略記した。
 
安芸武田氏の4代目/武田信繁の長男である武田信栄が、室町幕府6代将軍/足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に若狭守護職/一色義貫を誅殺した功績により、若狭守護職を任命されたことによって若狭武田氏の歴史は始まる。武田信栄は若狭の守護となったのを機会に安芸から若狭に本拠地を移した。
 
信栄は1441年(永享13年)28歳の若さで病死するが後を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。信賢以後武田家は分裂し、安芸武田氏は信繁四男/武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁三男/武田国信が継いだ。
 
武田信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍し、室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。
 
 
4−2.アイヌを攻略した武田信廣と佐々木繁綱

武田信廣と佐々木繁綱は若狭を出奔して北に上り、蝦夷地のアイヌを攻めたことが記録に残っている。
 
武田信廣(1431〜1494)は永享3年(1431年)安芸守護および若狭守護の武田信賢の子として若狭に生まれた。父信賢は家督を弟武田国信に譲る際に、実子であるこの信廣を養子にさせたが、間もなく国信に実子信親が誕生したことで、疎遠されるようになった。
 
武田信廣は1452年、21歳の時に、家子の佐々木繁綱、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長ほか侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔した。陸奥国宇曽利に移住し、蠣崎武田氏を名乗るようになった。さらに1454年、蝦夷地に渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。このとき、蠣崎信廣と改めている。
 
1457年にはアイヌ民族による日本武士の館への一斉襲撃があり、日本武士団とアイヌ民族の間でコシャマインの戦いが開戦した。開戦当初は、奇襲攻撃をくらった日本の武士たちが追い詰められていたが、蠣崎季繁のもとにいた蠣崎武田信廣が日本武士たちをまとめあげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとうアイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った。この功績により蠣崎武田信廣の蝦夷地における地位は決定的となった。
 
佐々木繁綱は蠣崎党の情報将校となり、アイヌに対して多岐に渡るコネクションを持っていたと言われ、アイヌが蜂起すると事前に情報をキャッチして、幾度となく蠣崎党の危機を救っている。若い頃に備後の戸屋ケ丸城城主であった佐々木繁綱は情報収集に才長けた人物であったのであろう。
 
蠣崎武田信廣の子孫も着実に蝦夷地の平定を進め、後に松前氏と改姓して江戸時代には蝦夷地を支配するに至っている。
 
 
備後の「戸屋ケ丸城」では佐々木繁綱は敗退したものの、若狭に戻って主君を出奔させて蝦夷地に攻め入る過程でその才能を発揮している。現在では少数民族となってしまったアイヌを絶滅寸前に追い込んだ嚆矢/張本人とも言える。現在でも自然と共生している少数民族に共感を覚える私としては許せない。
「江草氏」が「戸屋ケ丸城」で「佐々木繁綱」の首を刎ね損ねたのが残念である。
 
以上の記述において異論があるとすれば、「佐々木繁綱」は私の推論とは別人との見解が出てくるかも知れない。確かに「佐々木姓」は平安時代以降、中国、四国、近畿に多く見られた姓である。しかし検討を重ねても、よほどの論拠が無い限り結論は得られないと思う。佐々木繁綱のDNAを得る術も無く、仮にDNAを得てもそれを比較する術もないであろう。決定的な文献を探そうにも、問題があまりにも歴史的に小さ過ぎる。それならば、推論も交えて郷土史のロマンは大きい方が面白いと思う。完  
 (2009年5月10日 江草 拓 記)
 
注:ネット情報は複数の情報を取捨選択し、さらに適当に推論も加えて纏めたものなので、その点容赦願う。
 
 
関連項目:
 
江草城と江草村と江草姓を訪ねて
広島県神石郡の江草村と江草氏
 
       


 
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