ルーツを訪ねる旅
2012年07月22日
広島県神石郡の「江草村」と「江草氏」
本ページをご覧になった方より是非メールを頂きたく存じます。
特に「江草姓」の方がご覧になったらご連絡下さい。
はじめに
以前、拙ホームページに下記をアップした。
1)は、山梨県(甲斐国)の「江草村」を訪問して、「江草姓」のルーツを探した記事であり、山梨県(甲斐国)の「江草村、江草城」と、広島県東部(備後国)の豪族「江草氏」を関係付けることが出来る可能性を述べた。
この筋書きを抜粋すると、広島県東部(備後国)から遠く離れた山梨県(甲斐国)の山深くに「江草村」があり、室町・戦国時代に「江草城」があった。その城主は「江草信泰」である。
江草城主の菩提寺の江草村見性寺を訪問した時、その先代和尚は、「江草城主」と備後国の豪族「江草氏」は関係ないとの見解であった。
しかし、「江草信泰」の父「武田信満(〜1417年)」は、安芸守護、および安芸守であった事を私が文献で見つけた。
そして推論として、「武田信満」は管轄下の安芸国に隣接する備後国の豪族「江草氏」と関係が深くなり、「信満」の三男「武田信泰」は、その江草氏一族一派の養子となり「江草信泰」と改姓したのではないかと、江草村見性寺の先代和尚に説明した。
即ち、山梨県の「江草村」と広島県備後地方の豪族「江草氏」は関係があったとの推論である。
安芸国(現在の広島県西部)は、備後国(広島県東部)と隣接しており、交流が繁かったとの前提もある。これには江草村の先代和尚も初めて聞く話であり驚いていた。
2)は、上記を読まれた方から「福山市の広報誌」の一記事を紹介され、それを私なりに解釈して備後国の豪族「江草氏」に思いを巡らせた記事である。
最近(2012年7月)、上記1)と2)を読まれた読者の方からメールを戴き、鎌倉時代に備後国に江草村(現 広島県神石郡)があり、そこに横山氏の三男が住み着き江草姓を名乗ったとの記事が書かれたサイトを紹介戴いた。
紹介戴いたサイトは、旧家の横山氏の由来と由緒書に関わるサイトであり、その中から江草氏に関わる事項のみを抜粋し、一部私の解釈を加えて纏めたのが本文である。
なお、横山氏については、平安後期、源氏興隆の基礎を築いた八幡太郎義家の下で軍功を挙げた武将が、武蔵国横山郡と相模国下足柄郡を義家公より賜り、武蔵国横山郡に住み横山姓を名乗ったのが横山名字の元祖であると記されている。