ルーツを訪ねる旅
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20012年07月22日
備後国(広島県神石郡)の江草氏の起源
 
 
 
1−1.鎌倉時代(初期)
 
和田合戦(1213年)は、鎌倉時代初期の幕府内の内乱である。鎌倉幕府創業の功臣和田義盛は二代執権北条義時の度重なる挑発を受けて、横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するため挙兵をした。だが、土壇場で三浦は北条方に味方し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。
 
合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は戦死した。
 
この和田合戦で、和田方の武勇・血気あふれる勇敢な横山重忠は敗者となった。その後、京都郊外の北嵯峨に隠れ住んでいるのを備後国最大の豪族「宮氏(備後国久代宮氏)」が知り、永野村(広島県神石高原町)に招き、住み着いた。また同時に宮氏は自らの領地の一部を切り与えた。それより横山氏は宮氏の幕下に属することになった。
 
記録によると、

横山重忠(横山判官城пj備後国永野村(現
 広島県神石郡神石高原町永野)に住居する

    ‥‥嫡男忠通 三坂村に住居する(三坂狩野介と名乗る)
    ‥‥次男重望 永野村二子山の要害を築き老父重忠と一所に在城する(永野弥中太と名乗る)
    ‥‥三男資忠 江草村に住居する(江草勘解由左衛門是重と名乗る)
 
すなわち、横山重忠の三男資忠が江草村に住み着いて江草姓を名乗ったので、これが備後国(現 広島県神石郡神石高原町の一部)の江草氏の始まりである。(江草村の名称は現在はない)
 

 
1−2.鎌倉時代(末期)
 
鎌倉時代末期の記録として、下記が残っている。
1330年頃、江草右京亮忠保が永野の江草村から上野村八頭城に移る。(八頭城は県指定史跡)
 
 

1−3.南北朝時代
 
また、南北朝時代(1378年〜)の記録として下記が残っている。
横山義俊(父忠義の妾の子)が三坂一族、江草一党、片山左京進、其外一門の親族の助勢を以って横山忠義の跡目を継いだ。
 

この時代の別の記録として、備後地方の県道加茂油木線の七曲がりトンネルを抜けて山野町の中心部に入り、小田川が大きく湾曲する辺りに中世の山城である戸屋ケ丸城址がある。城主は大原氏を名乗って山麓の大原の地域を開墾して居住した。南北朝時代に大原氏は南朝方の江草氏によって攻撃されると、宮氏が地頭職となり、江草氏がその城代を勤めた。
 
 

1−4.室町時代末期と戦国時代初期
 
時代はさらに下り、戦国時代(1493年〜)となる。
備後国(広島県東部)では、在地領主で、その後守護にもなった「宮氏」が勢力を張っていた。しかし、戦国時代になると、中国地方ではより巨大な戦国大名(毛利氏、尼子氏、山名氏など)が覇を競った。その中で「宮氏」は「尼子氏」の傘下で勢力を保ったが、ついにその居城「志川滝山城」は「毛利氏」により陥落し(1552年)、宮氏の勢力は衰退した。
 
「江草氏」は横山氏の一族として「宮氏」の傘下だったので、この戦いでは敗者となった
 
 

1−5.安土桃山時代
 
その後、安土桃山時代(1568年〜)の文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)において、毛利輝元は総大将として朝鮮で戦った。この戦いで活躍した毛利傘下の横山義政は馬上から射る弓の名手で、備後国永野村に住んでいた。その妻(または娘)は江草次郎兵衛室との記録もある。
 
この記録により、「横山氏一族、およびその一派の江草氏」は、仕えた「宮氏」が「志川滝山城」で敗北した後、当時敵方であった毛利氏に仕えて活躍を続けていたことが窺える。このようなことは戦国時代では別に不思議ではない。
 
 
 

広島県神石郡神石高原町永野には中世の古墳として、江草第1号古墓(五輪塔,宝篋印塔)、江草第2号古墓(五輪塔,宝篋印塔)、同じく永野に帝釈江草遺跡がある。詳細年代は不明だが、何れも広島県指定史跡となってる。現在、福山市の駅家地区には、江草姓がとても多いとのこと。
 
 
 

なお、横山氏由来のサイトを紹介頂いた方からのメールには、
 
「江草家のご先祖様は神武天皇です。神武天皇から敏達天皇、小野妹子王を輩出した小野氏と成り、和田合戦で活躍した横山氏と成り、備後で江草村に居住し江草氏となった」とも書かれてあった。
 
恐れ多い話である。家系の組み合わせは無数であろうが、これも一つの話題である。
 

次ページに続く
 
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