ルーツを訪ねる旅
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20012年07月22日
甲斐国の江草村と備後国の江草村の関係
 
 
 
甲斐国の甲斐武田家(江草村、江草城)と、備後国の豪族江草氏(江草村)との関係をさらに推測してみよう。

下の系図は、甲斐武田家と安芸国との関係を示したものである。
 
源平合戦で戦功を挙げた「武田信義」が甲斐武田家を興し、その息子「武田信光」が鎌倉幕府より安芸守護に任命された。そして安芸国の守護の立場は、江草城の城主「江草信泰」の父「武田信満」に至るまで続いていた。(系図中の赤字表記の武将)
 
即ち、「武田信泰」が「江草信泰」を名乗る150年前より、武田家は安芸国の守護の任に当たっていた。
 
このように、甲斐国(山梨県)と、安芸国(広島県西部)は、鎌倉時代より行政的にも地理的にも深い繋がりがあったことは推測される。備後国は安芸国の東隣である。
 
 
甲斐国武田家と安芸国の関係 return.gif next.gif
甲斐国の武田氏と、備後国の江草氏を、時代を並べて眺めてみよう。
 
 
1−1.鎌倉時代(初期)

甲斐源氏(源義光)を始祖とする甲斐武田家5代当主武田信光(1162〜1248)が承久の乱の戦功により鎌倉幕府より安芸守護に任命され、安芸国佐東郡の山の麓(現 広島市安佐)に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗りだした。
 
横山重忠の三男資忠が、宮氏の招きにより備後国の江草村に住み着いて江草姓を名乗ったは同じく鎌倉時代初期である。
 
 

1−2.鎌倉時代(末期)
 
安芸国に下向した武田家9代当主武田信宗(〜1330)は、幕末の政情不安の中で戦乱の雰囲気が高まり、所領の防衛に適した地に城郭を構える必要に迫られたので、安芸国佐東郡の山地に佐東銀山城(金山城)を建設し、本格的な領土支配に乗り出した。
 
 

1−3.南北朝時代
 
甲斐武田家の10代当主武田信武(1292〜1359)が足利尊氏に使えて戦功を挙げ、安芸国の守護に任命された。そして信武次男の武田氏信(〜1394)が安芸守護として分家し、安芸武田家を興した。安芸武田家は銀山城を中心とした分郡守護として存続していた。そして、安芸武田家は、若狭武田家にも継承された。
 
なお、足利尊氏は清和天皇の嫡流であり、1336年に光明天皇を擁立し幕府を開き、北朝の勢力を形成した。従って武田家は北朝である。
 
一方後醍醐天皇は吉野に南朝を構え北朝との間で勢力を争った。しかし、南朝方は相次ぐ皇子と有力武将の死で衰退を極め、北朝に抵抗する術を殆ど失い、1392年、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体し南北朝時代は終わる。

この時期の備後国の出来事として、備後国の山城である戸屋ケ丸城の北朝方城主(佐々木信綱)が、南朝方の江草氏によって攻略され、宮氏が地頭職に、江草氏がその城代となった。宮氏は後に北朝方になり武功を挙げる。
 
 

1−4.室町時代、戦国時代
 
この時代、甲斐国では、甲斐武田家の10代当主/武田信武の3代目に当たる武田信満の3男「江草信泰」が「江草城」に構えた。そして、「江草城」を受け継いだ武田信経→信慶→信是→信元と、甲斐武田家嫡流の「武田信虎」(武田信玄の父)の間で「江草城の攻防1532年」が繰り広げられた。
 

ほぼ同時期、中国地方では巨大戦国大名(毛利氏、尼子氏、山名氏など)の覇権争いが繰り広げられた。そして、尼子方の「宮氏」の居城「志川滝山城」は「毛利氏」により陥落(1552年)し、宮氏傘下の「江草氏」は敗者となった。
 
 

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