江草氏の
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ルーツを訪ねる旅
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2009年05月10日
§3.宮氏の滅亡と江草氏
大原氏(佐々木繁綱)を敗退させて戸屋ケ丸城主となった「宮義兼」は、1462年に志川滝山城を築いた。しかし戦国時代となり巨大戦国大名(毛利氏、尼子氏、山名氏など)が周辺に台頭するとともに「宮氏」は衰退したことが、残された記述から伺われる。
 
 
天文3年(1534)居城桜山城(JR福塩線新市の近く)に拠った「宮入道」父子は毛利元就に攻められて降伏した。さらに、18年後の1552年「宮氏」はその拠城(志川滝山城)を毛利氏に猛攻され落城し、勢力は衰退した。
 
 
その志川滝山城の合戦の様子は次の記述で伺われる。
 
戦国時代、備後「宮氏」と安芸「毛利氏」の雌雄を懸けた決戦が行われた志川滝山城(福山市加茂町北山)は、吉備高原から流れ出た小河川の一つ、加茂川流域に開けた加茂町の平野から、更に西に分かれた同町四川の谷合の一番奥まった所に位置する。
 
城の山頂部からは南側の山波越しに神辺から更に福山方面を見通すことが出来、備後外郡と呼ばれた備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置を占めている。
 
この地に初めて城を築いたのは、山野の戸屋ケ丸城にいた「宮義兼」で、明応元年(1462)である。しかし、志川滝山城を一躍有名にしたのは、この地が天文21年(1552)の所謂「志川滝山合戦」の舞台となったからである。
 
志川滝山合戦は、南北朝時代以来、備南に勢力を持った「宮氏」と、安芸の「毛利氏」とが神辺平野の覇権をめぐって争った戦いで、これを大きな視野でとらえれば、出雲の戦国大名「尼子氏」と、大内義隆を殺し大内氏の実権を握った陶氏、及びその与党の「毛利氏」が、備後南部の支配権をめぐって争った一連の合戦の一部である。
 
すなわち、天文18年(1549)の神辺城の陥落によって備後南部の足場を失った「尼子氏」は、天文21年(1552)将軍義輝より備後など八ケ国の守護職を与えられると、再び中国山脈を越えて南下の姿勢を示した。これに呼応して「毛利氏」の圧迫によって備南での地位を失いつつあった尼子氏の勢力傘下の「宮氏」が、「宮入道光音」を盟主にして戦いに応じ、合戦となった。
そして、備後に出兵した毛利元就は、一気に総攻撃を決行して、「宮氏」の籠る志川滝山城を落とし「宮氏」の勢力は衰退する。しかし、毛利方も226人に達する戦死傷者を出しており、城方の抵抗もかなり激しかったことを窺わせる。
 
 
この記述でも「江草氏」の名前は出てこないが想像するに、「宮氏」の配下として行動を共にして「毛利氏」の猛攻撃を受け、宮氏と同じく勢力が衰え歴史の表舞台から消え去ったのではなかろうか。この辺りの事情に関して、もし知見をお持ちの方あればご教授願いたい。
なお、この地方は以降「毛利氏」の勢力圏となった。
 
 次ページへ続く

 
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