江草氏の
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ルーツを訪ねる旅
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2009年05月10日
§2.「広報ふくやま」の江草氏に関する記述
2−1.「広報ふくやま」(歴史散歩No.186)の記述(抜粋)
 
県道加茂油木線の七曲がりトンネルを抜けて山野町の中心部に入り、小田川が大きく湾曲する辺りに中世の山城である戸屋ケ丸城址があります。
城主は佐々木繁綱と伝えられ、鎌倉時代の初めに地頭職としてこの地に入り、大原氏を名乗って山麓の大原の地域を開墾して居住しました。南北朝時代に大原氏は南朝方の江草氏によって攻撃されると、宮氏が地頭職となり、江草氏がその城代を勤めます。
(注:城代とは城主の代わりに城を守る者をいう)
 
 
2−2.「広報ふくやま」の記述に関する検討

「広報ふくやま」の記述に対して、下記3点の下線部分が私が推論した事項である。
 
1)鎌倉時代初めに戸屋ケ丸城に入ったのは佐々木繁綱ではなく、武田信光(1162〜1248)の時代に別人が、甲斐武田系守護の出先としてこの地に入ったのではなかろうか。
 
理由‥‥‥「佐々木繁綱が鎌倉時代の初めに地頭職としてこの地に来た」とすれば、凡そ1200年前後となる。そして「南北朝時代に大原氏は南朝方の江草氏によって攻撃された」とすると、1336〜1392年になり、佐々木繁綱はそんなに長生きは出来ない。
 

2)佐々木繁綱の年代からすると、「南北朝時代に大原氏(佐々木繁綱)は南朝方の江草氏によって攻撃された」の記述は矛盾がある。実際に戦いがあったのは南北朝時代ではなく、さらに時代を下った南北朝合体(1392)後の足利政権の内部混乱時代か、その後に続く戦国時代の話ではなかろうか。
 
理由‥‥‥「佐々木繁綱は安芸武田家から分家した若狭武田家の武田信廣(1431〜1494)の家臣」との資料がある。それならば、武田信廣は、南北朝時代が北朝優勢にて終結した後の、室町時代末期および戦国時代初期の武将である。
 
 
3)「宮氏」が興隆した年代から見ても、戸屋ケ丸城の戦いの位置付けは南北朝間の戦いではなく、在地領主「宮氏」および宮氏傘下の「江草氏」が勢力拡大を図り、衰退期に入った室町幕府からの派遣守護勢力に対して挑んだ戦いだったのではなかろうか。
 
理由‥‥‥備中の在地領主の「宮氏」について、その興隆を調べると下記の記述があった。
 
元弘元年(1331)、後醍醐天皇(南朝)が笠置山へ遷幸したとき、楠木正成の挙兵に応じて、吉備津神社の祠官「桜山氏」が兵を挙げ京都に上ろうとしたが、不利な状況を見て自刃した。「桜山氏」は古代丹波氏の族(品治姓)で、別称を「宮氏」ともいった。
 
康永元年(1342)に「宮兼信」は南朝勢力の伊予国を攻め、観応2年(1351)同じく南朝方の石見攻めにおいても奮闘している。 「宮氏」は南朝方から北朝方に転向して勢力を挽回したのである。 翌年の南朝方の京都進攻によって、北朝の足利義詮は近江に逃れたが、義詮の京都奪回の合戦に「宮入道」が功をたてている。「宮氏」はその後、備中守護に任じられている。永和年中(1375-79)には、「宮将監」が吉備津神社社殿を復興し、社領も広大であったという。このようにして戦国時代まで、「宮氏」は備中・備後で栄えた。
 
 
この記述から類推すると、「戸屋ケ丸城の戦い」は、宮氏が南朝方から北朝方に転向した以降の勢力拡大を図った時期と見るのが自然でなかろうか。南北朝時代が終結した後の室町末期(戦国初期)は宮氏が備中守護の時期であったことを考えると、さらに頷ける。そして、敵対した佐々木繁綱も宮氏も共に北朝方の系列という事になる。加えて推定すれば、戸屋ケ丸城を攻略した土着豪族の「江草氏」も、宮氏と行動を共にしてこの時期栄えたのではなかろうか。
 
 次ページへ続く

 
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