江草氏の
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ルーツを訪ねる旅
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2009年05月10日
§1.安芸の国と武田氏と江草氏の関係
先ずは甲斐武田家と安芸の国の関係から調べてみよう。甲斐の国(現在の山梨県)と安芸の国(現在の広島県)は鎌倉時代より行政的に深い繋がりがあった。
(以下の出典は全て複数ネット情報を取捨選択したものである)
 
1−1.鎌倉時代(初期)

甲斐源氏(源義光)を始祖とする甲斐武田家5代当主/武田信光(1162〜1248)が承久の乱の戦功により鎌倉幕府より安芸守護に任命され、安芸国佐東郡の山の麓(現在の広島市安佐)に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗りだした。
 
 
1−2.鎌倉時代(末期)

安芸国に下向した武田家9代当主/武田信宗(〜1330)は、幕末の政情不安の中で戦乱の雰囲気が高まり、所領の防衛に適した地に城郭を構える必要に迫られたので、安芸国佐東郡(現在の広島市安佐)の山地に佐東銀山城(銀山城、金山城)を建設し、本格的な領土支配に乗り出した。
 
 
1−3.南北朝時代

甲斐武田家の10代当主/武田信武(1292〜1359)が足利尊氏に使えて戦功を挙げ、安芸国の守護に任命された。そして信武次男の武田氏信(〜1394)が安芸守護として分家し、安芸武田家を興した。しかし氏信は1368年に幕府によって守護職を解任され、以降安芸守護職は今川氏や細川氏等の足利一門が担ったが、安芸武田家は銀山城を中心とした分郡守護として存続している。
そして、安芸武田家は、氏信→信在→信守→信繁→信賢(若狭)→信廣(若狭)→‥‥‥ と継承された。

 
上記の最後に記した「信廣」は、本文における重要人物の一人である。
 
なお、足利尊氏は清和天皇の嫡流であり、1336年に光明天皇を擁立し幕府を開き、北朝の勢力を形成した。従って武田家は北朝である。また中国地方は極一部を除き全て北朝であった。
一方後醍醐天皇は吉野に南朝を構え北朝との間で勢力を争い、九州の一部が10年ほど南朝の支配下に入ることもあった。しかし、南朝方は相次ぐ皇子と有力武将の死で衰退を極め、北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。
そして1392年、足利義満の斡旋で、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体し、南北朝時代は終わる。
 
 
1−4.室町時代末期と戦国時代初期

安芸武田家から分家した若狭武田家の武田信廣(1431〜1494)の時代は、南北朝時代が北朝優勢にて終結した後の、室町時代末期およびその後の戦国時代初期である。
 
この時代、甲斐国では、甲斐武田家の10代当主/武田信武の3代目に当たる武田信満の3男「江草信泰」が構えた「江草城」を受け継いだ武田信経→信慶→信是→信元と、甲斐武田家本流の「武田信虎」(武田信玄の父)の間で繰り広げられた「江草城の攻防」の時期と同一である。
 
 
1−5.佐々木繁綱

この武将も、本文における重要人物の一人である。
 
広島県福山市山野町大字山野に戸屋ケ丸城址があり、城主は佐々木繁綱(〜1498)と伝えられている。佐々木繁綱は安芸武田家から分家した若狭武田家/武田信廣(1431〜1494)の家臣である。(「広報ふくやま」およびネット情報の抜粋意訳)

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