大韓毎日申報

大韓毎日申報は1904年にイギリス人ベッセルによって創刊。最初は純ハングルと英文で出発した。
その後一時中断期間を経て、1905年8月から漢字ハングル混じり紙として再出発した。英文紙は切り離された。
大韓帝国期は抗日色の強い新聞として知られていたが、1907年にベッセルが逮捕されて以来論調が変わっていた。
大韓毎日申報は名前は変わるが、併合後も残る唯一の朝鮮語紙となった。

1910年8月28日
 韓国併合前に出た最後の大韓毎日申報である。
 題字右側には開国紀元(檀紀)、箕氏朝鮮が出てきてからの年数、
 大韓開国(李朝成立)からの年数などが並べられている。

 8月28日は併合についての報道が解禁になった日で、
 時局問題の経過としてその間の動きが報道された。
  日本語新聞にもこの日に併合に関する記事が載せられている。

 なお、発表は当初の予定より数日遅らされたのであるが、
 27日は第3回皇帝即位記念日で
 官庁などでは国旗を掲揚して慶祝していた。
1910年8月30日
 通巻番号からもわかるように、29日は新聞が発行されていない。
 再開された30日の紙面はかなりの変化が見られる。
 まず、題字が「毎日申報」に変わった。
 国号が朝鮮に変わったため、「大韓」はふさわしくないという理由である。

 左上の年号も鳰、4年から明治43年に変わった。

 題字の文字そのものは「大韓毎日申報」から
 「大韓」を取っただけだが、バランスの問題であろう。
 皇城新聞と異なりレイアウトそのものが変更されている。
 大韓毎日申報のときに書かれていた朝鮮の様々な年号は削り取られ、
 代わりに新聞の購読料と広告料になった。

 題字のすぐ下には官報の号外が載せられ、
 併合の詔勅、勅諭(以上韓国側)、天皇の詔書などが掲載され、
 一面最下段は皇室令が書かれていた。

 なお、この日の論説は「同化の主意」である。

1910年8月31日


 8月31日には、題字そのものが大きく変えられた。
 新たに文字を 書き直し、縦書きとなった。
 日本の新聞の形式に合わされたのかもしれない。購読料、広告料も消えた。

 「毎日申報」はその後、総統府の機関誌としての役割を負うようになる。
 総督府側の機関誌は、
 日本語紙は京城日報、英字紙The Seoul Pressであった。
 当面はこの3紙しか発行できない状態が続いた。

 他の民間朝鮮語紙が発行されるのは、
 1920年代の「文化政治」期に入って、
 朝鮮日報、東亜日報が発刊されるまで待たなければならなかった。

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