京城新報

京城新報は当時ソウルで発行されていた日本人居留民による日本語新聞である。
1907年創刊で一時京城新聞に名前を変えた時機もある。

韓国語の新聞は大韓帝国の「新聞法」の適用をうけたが、それ以外の新聞は適用外である。
また、外国人には治外法権が認められていたため、この新聞も日本法に基づいて作られる。検閲も日本側によって行われた。

「特に、峰岸繁太郎主宰の『京城新報』は、統監府機関紙『京城日報』とは遍く対立する野党的論調を貫いた。」(高麗書林の広告文)が
その統監府の機関誌であった京城日報は、1905年以前のものは殆ど現存していない。

1910年8月28 日
日本側の新聞であるため、韓国の年号の鳰、は使われず、明治で記される。

題字の下には格言が書かれる「人の一生は重き荷を負ふて遠き道を行くが如し急ぐ可からず」
さらに下には発行所、定価などが書かれるが、よく見ると1行目は「明治43年、紀元2570年」となっている。
つまり、韓国の中にあっても「治外法権」ゆえか、そこには日本の世界が広がっているのである。

この日は併合の事実が公表されたが、2面トップ記事は「日韓関係の復古、半島前途の大光明」であった。
中央に「時局経過の詳報」が書かれた。

この書き出しは、京城日報との関係をよく表している。
「愚直なる本紙は当局の言論取締の意を体して時局に関する報道を自ら謹みたり、
而るは昨発行の半官紙京城日報は時局問題の経過と題して合併条約の梗概を公にす、
之に因つて言論取締の解除せられたるや明なり、
依つて本紙は昨報道を欠きたるの罪を識者に謝し合わせて左の詳報を公にす」

1910年8月30 日
併合後最初に出た新聞である。韓国側の新聞が名前を変えたられ、題字も変わったり、
それまで使っていた元号の「鳰、」が「明治」になるなど大きな変化事と比べて、「何も変化がない」。
題字もそのまま、一面の連載小説もそのままである。

2面、3面は併合関係の記事が載せられているが、日本本土の新聞に比べて抑えられた書き方となっている。

法的な地位は、
大韓帝国の中で認められた「治外法権」上の地位から、日本の領土「朝鮮」の中にある日本の新聞に変わったが、
意識の上では、「日本」が連続していた様子がみてとれる。

なお、京城新報は1912年2月まで続いて廃刊となった。
【番外編】
左は1910年7月26日の一面である。曾禰統監が更迭され、寺内統監に変わった記念号である。
誌面を見る限り、韓国併合よりもこちらの方が大きな扱いである。

右は「京城新報」のコラム欄である。その名も「治外法権」であった。1910年8月30日のもの。

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