皇城新聞

皇城新聞は当時の朝鮮の有力紙の1つである。この年の9月14日付け新聞を最後に廃刊となっている。

1910年8月27日
韓国併合前に出た最後の皇城新聞である。
皇城とはソウルのことで、皇帝のいる城という意味である。
中央には韓国の国旗である太極旗が描かれ、
表題上には大韓鳰、4年という韓国の元号が書かれる。

この直前の新聞には、「重要案件提示」(8月23日)
「重要問題の経過」「解決は25日後」(8月24日)
「臨時重要閣議」「発表は2、3日後」(8月25日)として
何か重大なことがあることはほのめかしていた。

日本の新聞はすでに併合を前提にした記事が組まれ、
23日には併合が発表されていたが、大韓帝国では
厳重に秘密にされ、併合に触れた日本の新聞も輸入が
禁止されていた。当時の新聞には釜山で没収されたという
記事が多く出ている。

新聞の右には、「毎日発刊」として朝鮮の種々の年号と
ともに、日本、清国、西洋の年号が書かれていた。
1910年8月29日
8月28日には新聞は発刊されていない。29日に号外がだされた。ここで韓国民にも併合が発表されたのであるが、
注目すべきはすでに元号が明治に変わっていることである。

「韓国併合に関する条約」の第8条は、
「本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして公布の日より之を施行す」とする。
また、「国号改称朝鮮」では「韓国の国号は本日から朝鮮に改めること」とされている。
したがって、公布された時点ではすでに「大日本帝国」の「朝鮮」となっていたのだが、
そのこことをこの「号外」は如実に語っている。

鳰、の元号は、本文中、皇帝が署名した日の「大皇帝陛下詔勅」(8月22日)、併合に関する「大皇帝陛下勅諭」(8月29日)、
李完用による条約締結の日付(8月22日)の3ヶ所である。「勅諭」では「鳰、」と書かれているが、この日に条約が発効しているから、
法的には、すでに存在していない元号ということになる。そのことは題字で、明治と鳰、が並べられていないことからも読み取れる。

また、この条約文は韓国側で出されているのに、日韓合併となっていて、韓日合併とはなっていない。
すでに発表されたときに「日本」の「朝鮮」になっていたためだろうか。さすがに皇帝の詔勅本文は、
韓国側の文章であるため韓日となっているが、全体はあくまでも「日韓」なのである。

1910年8月30日
翌30日の新聞は大きな変化があった。
まず、題字が「皇城新聞」から「漢城新聞」に変わった。
文字の様子から「漢」の文字を急いで作ったことがわかる。

すでに皇帝はいないから、皇帝の城ではないのだ。
それ以前の漢字式名称の漢城にもどしたのだ。
本文中にも名称変更の告知がある(太極旗の下)

元号も明治43年に変わった。左隅の通巻号数から
新聞が一連のものであることが分かる。

右肩の「毎日発刊」からも朝鮮の年号だけでなく、
一切の年号が消えた。
1910年8月31日
8月30日には、中央に残っていた「大韓帝国の国旗」の「太極 旗」が消された。
消して、文字の配列を直した跡は、版のかすれから見て取れる。

その後、一部の新聞を除いて、日本語紙も韓国語紙も
一切の新聞が廃刊となる。『漢城新聞』も9月14日が終刊となった。

目次     HOME    次のページ