支石墓
志登支石墓群 支石墓から見た伽耶山

糸島半島周辺には縄文から弥生に移行する前後の墓である、支石墓が点在する。支石墓そののは世界各地にあるが、ここのものは中国東北部から朝鮮半島に入っ た墓制を継承している。朝鮮半島での支石墓は大きく、テーブル状の「北方式」(:卓子形=地上に埋葬施設が露出する)と、大きな石を地上に置く「南方式」(:大石蓋型、地下に埋葬施設を設ける)に分けられるが、この地域のものは南方型である。分布も朝鮮半島では全土に分布するが、玄界灘に北部九州、しかも西部 に局限される。伽耶地域との交流の盛んだった地域で、甕棺墓の地域とほぼ重なるという。

支石墓の形態もかなり土着化したもので、朝鮮半島のものと同じではない。すなわち、朝鮮半島の支石墓に比べ、覆石が小型化すること。地下の石室に木棺を入れる朝鮮の方式に対して、木棺、甕棺、石室な様々な形態を取る。加布里湾沿岸の海岸砂丘上にある新町遺跡などでは、子供が甕棺、成人は木棺に埋葬される。 また、新町遺跡からは人骨も発掘されているが、多くは縄文人の形態を持つものであった。渡来人ではなく、稲作を受容した人々が、朝鮮半島の墓制も導入した と言えそうである。

志登支石墓群は志摩半島の付け根の微高地に作られた。周囲は水田であるが、支石墓が作られた時代は両側に湾が迫る砂嘴状の場所であったようだ。この地域には波多江という地名が残されている。中世はここを拠点にした波多江氏がいたそうだ。古くは港湾だったようだが現在は陸化されている。さらに伽耶山、芥屋など、韓国の伽耶を連想させる地名も多く残り、両者が密接だったことがわかる。

石ヶ崎支石墓(前原) 新町遺跡(志摩) 芥屋の大門(裏側)
    
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