糸島地方の古墳
端山古墳 築山古墳 狐塚

糸島地域は三雲、井原地域に伊都国が栄えていた。伊都国が交易を占めていたからである。弥生時代末期になり大和朝廷の力が浸透するようになると、伊都国の位置づけも変わってきた。一方で大和朝廷からすれば、朝鮮との交易ルートを保持することは重要で、そのために糸島の首長クラスを掌握したようだ。海岸沿いの、伊都国の下にあった海岸沿いの集団から、首長クラスの墓である前方後円墳が作られ始める。

伊都国の範囲でも、4世紀に突如端山古墳が作られる。奈良の箸墓と同じく前方部の狭い古墳である(前方部は喪失)。続いてホタテ貝式の築山古墳(4世紀後半)である。これらの古墳は伊都国に変わってこの地域を支配した豪族の墓と考えられている。元の伊都国の範囲に作られた前方後円墳この2つである(茶臼山という古墳があったとされるが、不詳)。

5世紀に入ると、前方後円墳の築造は一段落して、古墳の立地も変わる。伊都では西の曽根に移り、円墳の狐塚(5世紀前半)、続いてホタテ貝式のの銭瓶塚(5世紀後半)、ワレ塚(5世紀末)が作られる。このうち、狐塚は初期の横穴式石室があることがわかっている。ここの前方後円墳はワレ塚で終わる。

なお、527年の磐井の乱以降、大和政権の北九州支配が強まる。536年には朝鮮半島情勢に対応するためもあって、那津官家が博多に置かれる。それ以降の古墳からは武具や馬具が増加する。例えば、6世紀前半の円墳、古賀崎古墳からは単竜頭環頭太刀が出ている。渡来人の関わりか、直接伽耶から手に入れたかの どちらかであろうと考えられている。

銭瓶塚 ワレ塚 古賀崎古墳
    
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