糸島(伊都国あと)
三雲南小路遺跡(弥生時代中期) 説明板 井原鑓溝遺跡(弥生時代後期)

糸島地域には副葬品を伴った支石墓がある。有力な支配者集団がいたことがわかるが、それらを地盤に「伊都国」が成立した。朝鮮半島との交易ルートを保持できたからである。この支配層の墓が、王墓が弥生時代中期後半に現れた。一人単独の墓で豊富な副葬品が特徴である。まず三雲南小路に王墓が築かれ、続く王墓が井原鑓溝遺跡である。ただ、江戸時代に発見された遺跡の場所は特定されていない。

その次が平原王墓である。弥生時代末期であるが、ここから40枚の銅鏡が出てきた。一つの墓から出てきた数の多さも異例であるが、直径46.5cmある内行花文鏡は日本最大の大きさである。出土品からこの王墓は巫女的な性格を持っている墓だとされている。王墓の東側に奴国に抜ける日向峠が見える。墓の東側からは大柱の跡が出てきているが、日向峠から出てきた太陽の陰が、王墓の足下に伸びてくると言う。なお、復元にあたって、墳丘の形は特に根拠がないとのことであった。

これらの墳墓の存在は伊都国の勢力の強さを伺わせる。しかし、弥生時代末期から古墳時代初期にかけて交易の様子が変わってきたようだ。今津湾、博多湾に製塩、玉制作、鍛冶の技術などがいち早く導入され、西新町遺跡が拠点貿易 港として開かれるようになるからである。大和政権との交易のためであると考えられている。一方で、糸島地域も依然として重要な地域であったようだ。外の地域にないほど前方後円墳が多く作られ続け、一大密集地帯になっているからである

平原1号墳 説明板 前原から志摩半島方面を見る
    
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