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2013年5月19日
攘夷論から開国論に

日本史
尊王攘夷運動から、四国艦隊下関砲撃事件まで(1時間)。
 
島津久光の提起により文久の改革が行われたが、久光が京都を去り薩摩へ行くと、京都では攘夷派の力が強くなる。長州で松下村塾出身者の力が強くなり、長州藩の攘夷論者が実権を握ったため。
 
これに勢いを得た朝廷は急進攘夷派の三条実美を勅使として江戸に送り、攘夷を迫る。将軍は229年ぶりに上洛し、朝廷を牽制しようとしたが、結局攘夷を飲まされる。
 
そのため、1863年5月10日を期して攘夷を実行する事になり、長州藩は下関を通過する英仏蘭船を攻撃する。
 
しかし、朝廷では8月18日に公武合体派による政変がおき、三条実美は都落ち、長州藩は京都に出入り出来なくなる。孝明天皇も、「8月18日の動きが自分の気持ち」と宣言してしまったの、攘夷派はハシゴを外されてしまった格好になった。
 
実はこの直前に孝明天皇を中心とした倒幕の動きがあった。孝明天皇は伊勢神宮、神武天皇陵、春日大社を訪問して、攘夷、倒幕を誓っていたからである。
 
なぜ、神武天皇陵かというと、伝説上初代の天皇で、孝明天皇まで代が途切れていないことになっているし、その上はさらに天照大神、イザナギ、イザナミまで繋がる(国作りの話しを簡単に)。つまり、日本の国を作った神々に宣言をすることになるのである。
 
一方、長州藩は再起を期し、兵と共に京都に上がるが阻止される。ついには、蛤御門付近で戦闘となり敗北する。これにより長州は「朝敵」とされ、指導力を回復したい幕府によって征討される。これに期を合わせて四国艦隊が下関を砲撃した。
 
四国艦隊側は、攘夷による攻撃への報復を行うことと、これにより、攘夷は無駄だと言うことを日本中に知らせることを目的としていた。砲撃前に幕府に通報して、他の開港場に影響を及ばさないことも伝えていた。いわば、両方が手を組んで長州を攻撃したことになる。
 
結果的に、長州内で保守派が勢力を奪還したことで、長州は幕府軍と戦闘せずに敗北という結果を受け入れることになった。この1年前、薩摩も生麦事件の報復による薩英戦争によって攘夷が不可能だと言うことを思い知っていた。
 
今後日本では急速に攘夷論が消えていく。しかし、なぜそれが出来たのであろうか。
 
実は、尊王攘夷の考えは水戸学と共に平田派の国学の影響も強かった。
平田篤胤は、世の中のすべてのものが古来に日本にあったとして、その根拠を求めて日本書紀や古事記を研究した人であった。はるか昔から神代文字があったし(どうみてもハングル)、アダムとイブはイザナギ、イサナミだとするほどだった。この考えから「天皇中心」、「古来からの神道のすぐれた国」という考えが出てきて、「尊王」と「攘夷」に繋がっていった。
 
平田の考えは弟子たちに敷衍され、時勢と共に尊王、攘夷の面が強くなっていた。地方でその考えを支持するものが多かったが、その中に津和野藩士の大国隆正がいた。大国はキリスト圏の力の強さも知っていたため、単なる攘夷論では駄目なことも分かっていた。そこで「攘夷するためには、まずは西欧諸国と交流して、富国強兵をする必要がある。それをしないと対峙できない」と主張した。
 
つまり、攘夷のために力をつける必要があるという理屈である。言い方を変えれば拡大版攘夷論であり、開国、富国強兵は攘夷のためと言うことになる。その観点からその後の日本の歩みを見ていると、ある程度自信がついたときに攘夷的な動きが出てくるという特徴がある。大国そのものを意識していなくとも、意識の底で大国と共通する感覚を持ち続けていると言うことだろう(その意味で平田派の考え、攘夷は未だ克服されていない)。
 
一方で尊王はそのまま残った。それゆえ、天皇を旗頭とする倒幕へと急速に進んでいったと言える。(大国の話は、次回もう一度やり直す予定〔時間切れではしょったため〕)。

Posted by hajimet at 22:03 | Comments (0)

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