富岡城

島原半島、九州本土方面

富岡城は、天草と陸繋島の関係にある島の上に築かれた城である。三方が海に囲まれると防禦に強い場所であると共に、島原湾。有明海の入口で、対岸は長崎半島先端となる、交通の要衝である。砂嘴川は堀代わりの池が横たわり、海側も別の砂州で囲まれる構造となっている。

唐津藩主寺沢広高によって築かれた。天草は小西行長斬首後、加藤清正領とされるが、1603年には唐津藩領に移った。天草・島原の乱後は、天領になるが、明治になるまで政治の中心地であった。

こ こは、天草・島原の乱の激戦地の一つである。本渡の戦いが終わった後、敗走した唐津側は富岡城に籠城した。一方、天草四郎軍は3キロ離れた志岐城に陣をし き、2回に渡って富岡城を攻撃した。しかし、富岡城を落とすことが出来ず、幕府から援軍がくるという情報を得て、島原側に渡り、原城に籠もる作戦にかわっ たのである。

城の下は、天草最初の殉教者、アダム荒川の処刑された場所である。また、二の丸広場には鈴木重成、鈴木正三、頼山陽、勝海舟の銅像が建っている。




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