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6.歌垣の世界
ベトナム北部の少数民族には「歌垣」の習慣がある(あった)と言う。

「歌垣」とは不特定多数の男女が配偶者や恋人を求めて集まり、即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて、歌の掛け合いをするものである。しかし現在では近代化と観光化で殆ど消滅してしまったと本に書いてある。

従って今回の旅行では万一にも歌垣の現場にお目に掛かることはないとは思いつつ一抹の期待はしていたが、やはりお目に掛かることは出来なかった。

せめて歌垣の流れを汲んでいる CD か DVD でもないかと思って少数民族の民族音楽を現地ガイドに探して貰ったが、帰国後視聴してみると近代的に編曲された趣旨が違う音楽だった。
また花モン族の村の小学校で、小学生がベトナム語とモン語による歌を歌ってくれたがこれまた近代的で教科書的な歌だった。
ベトナム最北の町ドンバンのホテルの近所の公民館的な場所で、夜若い男女が集まっており、スピーカーから聞き慣れない音階が流れたが、これも多分歌垣とは違うだろう。
結局今回の旅行中に少数民族の音楽を一度も聴くことはなかった。もしかしたら少数民族の音楽そのものが消滅してしまったのかも知れない。

サパの町などでも数年前までは歌垣の風習が見られたが、観光客の増加により見られなくなったと旅行案内書に書かれている。観光化によりこの風習がなくなるのは当然である。
「歌垣」は若者達が恋人を見つけるための内輪の行事であり、見知らぬ観光客に見せるためのショーではない。

それにしても観光案内的な書物では「歌垣」を「ラブマーケット」と説明しているが何と品のない翻訳であろうか。この翻訳の中には「男女が交互に即興的に歌の掛け合いを行い相手の気を惹く」とのニャンスは全くなく、近代人の好む「淫らな乱交パーティ」のニャンスすら感じられる。このような翻訳と説明をする人には細かい心の綾は理解出来ない。

中国の一部の少数民族の観光地では、「歌垣」が観光材料になると分かると、体系的に整えられて即興性の消滅した恋歌を大音量のスピーカーから流して「これが歌垣だ」と観光客に披露しているところもあると言う。何をか言わんやである。

「歌垣」の伝統はアジアのアミニズム的神話世界を持つ民族の間で伝わってきた奥床しい風習である。対して優勢民族である漢族やキン族の社会では歌垣の習慣はなく“好色的”として軽蔑する伝統があったと聞く。また、単一神(キリスト教、イスラム教など)を信じる民族や、戦乱を繰り返し打算の強くなった民族には歌垣の風習は存在しない。

少数民族の歌の掛け合い(歌掛け)には恋愛を交わす歌垣に限らず、主人と客との挨拶歌、問答形式で歌う創世神話など様々な形式がある。
一般に言われる恋愛の「歌垣」は「歌掛け」の中の一つの種類である。

遡れば、万葉集には「歌掛け」の流れを汲んだものがあると聞いた。また、信長、秀吉を相手に瀬戸内海で暴れ回った海賊の村上水軍は、いざ戦場に赴く前に大山祇神社の神楽殿に集まり「連歌」を奉納したと言う。村上水軍の場合は、出陣を前にして戦勝を祈願するため皆が一座に集まり心を一つにして、5千あるいは1万もの歌を次々に即興で繋いだ。こじつけかも知れないが「切実な思いを即興の歌で繋ぐ」と言う意味では「歌掛け」に通じると思う。

万葉集は学生時代に犬飼孝教授の名講義を楽しみにしていた。46年前の事である。村上水軍の話は小説「秀吉と武吉」で知識を得た。

私は太平洋戦争の終戦当時、瀬戸内海の小さな島に疎開していたが、そこには歌垣の流れを汲むと思われる子供達の遊びがあった。
子供達が二組に分かれて「Aさんが欲しいな花一文目!」「Bさんが欲しいな花一文目!」と交互に歌う遊びである。今にして思えば大人の歌垣の風習を子供達が無邪気に真似した遊びでなかったかと思う。
当時は遊びと歌がセットになっていたと記憶する。「かごめ、かごめ」や「せっせっせ」もそうだし「あやとり」も歌いながらやっていた。それが国民学校から小学校と名前を変え、西洋式の「ド・レ・ミ‥‥」と「ピアノまたはオルガン」による機械的な音楽教育になって、耳から覚えた日本の音階は忘れ、遊びから歌が消えたように思う。

別項でも述べたが、観光化と近代化は物質面では豊かになるが、精神的には文明の悪い側面を取り入れ純真な原始の心を失うところが大きい。

私は海外旅行の度に、旅行記に「心の文明度は現地の方が高い」と書いてきたが、今回もそのように思う。

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                         平成17年10月29日 記