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2.モン族の悲劇
ベトナムのモン族の系列では白モン族、黒モン族、赤モン族、花モン族などがあり、何れの民族も華やかな刺繍の民族衣装を着ている。少数民族の中でも花モン族、赤モン族などの衣装面の華やかさは最右翼であり、私も今回の旅行でモン族の娘さん達の写真を数多く撮影した。

モン族の歴史を調べようと思ったがベトナム関連の書籍は意外に少なかった。(熱心に探したわけではないが)

中国の雲南省を旅行した人の旅行記にはモン族の生活・風習などの記述があったが、一番興味を引いたのはラオスでボランティア活動を行っている人達等のルポルタージュ類である。その他にミャンマーやタイの旅行記にもモン族に関する記述はあった。(いずれも眺め読み)


戦乱時には少数民族が犠牲になる場合が多い。一つの例としてベトナム戦争当時におけるモン族の悲劇を、ラオスで活動を行っている人達の複数のルポルタージュ類から抜粋要約して見た。

ベトナム戦争中、当時の北ベトナムが、南ベトナムで戦う「解放民族戦線」に物資を輸送したルートが所謂「ホー・チ・ミン・ルート」である。
米国はラオス国内を走るその「ホー・チ・ミン・ルート」をたたくため、山岳地帯を機敏に動くラオスに住むモン族の機動力に目をつけ、高い報酬でモン族を雇った。

1961年、ラオス北部に米軍基地がつくられ密かにモン特殊部隊が組織された。そしてモン特殊部隊はアメリカ軍の先兵として北ベトナム軍やラオス愛国戦線(パテト・ラオ)と戦うことになった。しかも敵方の北ベトナム軍やラオス愛国戦線の中にもモン族が居たため、同族同士が殺し合う悲劇ともなった。

アメリカ側の戦況が悪化してアメリカ軍の撤退が始まると、アメリカ軍はモン特殊部隊を見捨てた。その結果北ベトナム軍の報復攻撃も含め合計20万人ものモン族が戦死したと言う。アメリカ軍のベトナム戦争による戦死者はモン族の1/4の5万8千人である。もしモン特殊部隊が居なかったらアメリカ軍の犠牲は相当数増えた筈である。なおベトナム戦争におけるベトナム人の死者は200万人を超えたと書かれている。

しかも米軍はラオスのホー・チ・ミン・ルート沿いに250〜300万トンの爆弾を投下し、その内の20万トンが不発弾となり現在も住民の生活を脅かしている。この不発弾が完全に撤去されるには数百年かかると言う。

戦争が終わってからもモン族の悲劇は続いた。北ベトナム軍やラオス愛国戦線と戦ったモン族は帰る地がなくなり、タイに難民キャンプが作られ30万人ほどのモン族が一時そこで暮らした。
現在ではこの難民キャンプは閉鎖されたが、一部のモン族(10数万人)がアメリカに渡ったと言う。アメリカに渡ったモン族がアメリカ社会で幸せに暮らしているかどうか記述はないが、彼らが長く続けてきた伝統文化を守って生活しているとは思えない。

このような記述は別の面からの反論もあろうが、強大な国のエゴが少数民族を犠牲にした一つの例とみなせると思う。映画「地獄の黙示録」は実話でなく創作ではあるが、アメリカがアジアを見る一つの歪められた視点を垣間見るようだ。

元々モン族は中国の雲南省辺りで暮らしていたが、漢民族に支配されることを嫌い、漢民族の迫害を受けて中国からベトナムやラオスを南下し、その移動途中で不便な山谷(即ち安全な場所)に分派して彼らの村を作りながら、タイには19世紀に移り住んだと言われる。

定住の地を持たず、他民族に追われ、戦火に巻き込まれ、安住の地を求めて移動を繰り返して来た民族である。

中国では「苗族」、タイやラオスでは「メオ」とも呼ばれる。農耕民族で照葉樹林帯に起源しているので「日本の農耕文化のルーツ」の民族とも言われている。

モン族の悲劇はその犠牲となった人数が大きく、また舞台もベトナム、ラオス、アメリカと広がっているので少数民族の悲劇の例として挙げやすいが、歴史的にはこのような悲劇の小型版が無数にあり、その結果現在の少数民族の存在があるとも理解出来る。 歴史的に大きな悲劇でも小さな悲劇でも、その当事者にとって悲劇の度合いは同じである。

民族間の争いではどちらが正義で、どちらが悪とかの経緯はない。強いて言えば「勝てば官軍」、即ち強い民族が歴史的に正義となる。
しかし、弱い民族が悪者ではない。強食弱肉の歴史舞台でたまたまその地に生まれただけの運命としか言いようがない。

華やかな民族衣装と笑顔の娘さんを楽しく鑑賞した今回の旅行であったが、その華やかな民族衣装の陰には迫害にも負けず、その民族のアイデンティティを守り抜きたいとの強烈な意思表示が含まれていたことも忘れてはいけない。   
 
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                            平成17年10月29日 記